みらい21かなる - 社会福祉士 山眞弓

みらい21かなる

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盆の16日

地獄の釜の蓋もあくという盆の16日、故郷の昔は、盆の間中の供え物、うどん、ずんだもち、変わりご飯、などと、しきたりどおりの順番で拵えられ、供えられて、里芋の大きな葉っぱの上を、一巡したままになっていたのが、片付けられた。

 

それら供物は、盆棚を飾っていた青笹と一緒に巻かれて、縛られて、それを父親か、長兄かが、大川に出かけて流してくるのだった。その片付ける祖母の手の動きが目に浮かぶ。

 

そうすると、その供え物たちは、めでたくあの世に渡るのかどうか、どういう訳かそんな風習だった。今なら、河川の汚染とか言われそうである。あの頃は川の水は、1間だか流れると、きれいになるそうだった。

 

盆がくると、多分盆の13日だったのか、店から一升瓶を入れてくる、空っぽになった木箱などを持ち込んで、数段の大きな盆棚を飾った。それを、緑色の縞模様だったと思い出すが、盆ござで覆い、父親が、隣の叔父の竹林から青笹を持ち込んで、結構粗雑に作ってしまう。一番上は拭き清められたお位牌たち。

 

その前に岐阜提灯を一双ならべると、出来上がり。でもこの岐阜提灯の青い絵柄が綺麗で、電気をつけてもらってその前で遊んだりした。盆棚には、茄子、胡瓜、茗荷、カボチャ、インゲン豆など畑の野菜が供えられた。

 

そしてお土産のお菓子箱、スイカなども供えられて、線香を立てて、その匂いとともにお盆はやってくる。親類がお墓参りの帰りに立ち寄り、盆棚の前で賑やかに飲んだり、食べたりするのだった。

 

盆下駄をおろして、一家中そろってご先祖様の墓参り、気候も今ほど暑くは無かったし、冷蔵庫もまだ無かった頃、スイカも家の前の用水路で冷やす時代であった。

 

おっさん(お坊さん)も自転車でやってきて、お経をあげてくれた。どこの家も同じように盆を過ごし、迎え火とか、送り火とか、花火もしたのだろうか。盆を過ごせば、もう涼風、赤とんぼの初秋であった。

 

あれから60年も過ぎて、お墓を守る人がいない時代を迎え、東北の寒村のお寺さんにも、永代供養塔ができる時代である。

| ふるさとの暮らし | 22:16 | comments(0) | - |
互酬的な規律と栗の実
ふるさとでは栗の実は何処に生えていても、朝一番に拾った人の物、食べて良いという共同所有の形が残っていたと見える。
 
栗原衆(くりばらしゅ)を娶った我が家のような家、あるいはその人々と接して暮らし、習慣を伝えられた人々において、玉造でも、あるいは東北の各地において、伝わり守られた所有形式かもしれない。
 
主食となるものみ(栗の実)は共同所有とするなんて、レヴィー・ストロースのインセスト・タブーの謎解きのような、世代を超えた互酬のシステムではなかったかと思う。世代をまたいで考える、論理的、理性的な野生の思考。
 
共に生活を支え、生殖する力、価値ある女性の交換、その規律(インセストタブー)に通じる。集団の存続のために、世代を超えた互酬の習慣には、神話や慣習がそのように人々を納得せしめた構造が見いだせる。
 
私などは間違いなく縄文の血を引いている。しかし私達の父祖伝来の土地は今、福島原発事故で危機に見舞われている。この危機はどのような決着をみるのだろうか。
 
幾世代を超えて私達は互酬的な社会システムを得て、富み栄え続ける事を願う。そしてその中で人を害せずである。自分の利益の最大化を求める事、それを理性的で正しい判断とする市場原理主義に抗して、子供達の代の利益も考える、末代までの助け合いを考えて、その利益を社会の規律に内在させる。
 
それは幻想、見果てぬ夢などと思わないで、一つ一つ組み合わせ形をなすように。いろいろと考え回す事だ。

沢山の無念の死を死んだであろう祖父達が生きた規律。自己利益を最優先させる事の弊害が溢れているこの時代、共に生き延びようとする「互酬的な規律」が求められていると思う。
 
| ふるさとの暮らし | 10:50 | comments(0) | - |
栗の苗床
また正月が来て、今年も栗を食べる。きんとん、ゆで栗、渋皮煮などと。「やりくりが良いようにな」という祖母の声が聞こえるようだ。
 
我が家の「いぐね(屋敷森)」の栗の木は、朝一番に拾った人の物だったけれど、とても大きな実を付ける丹波栗で、祖母が植えた。何処からどのようにして手に入れたのかは、聞かないでしまった。祖母が元気なうちに、父親の存命中に聞き出しておけばよかった。
 
近在の家々の栗の木も山の栗も小粒で、家の栗の半分くらい。味は山栗の方が濃かったかもしれないが、家の栗も美味しい。家の栗は、「いが」を剥かれて「いが」からすべり落ちるようにして顔を出す時、見事に大きくつやつやと茶色く光る、実に立派な栗だった。
 
その立派さに、誰かが祖母に家の丹波栗の苗が欲しいと頼んだらしく、祖母が家の畑で丹波栗の苗を育てた事がある。畑に栗の実を運び入れて、鍬で漉いた畑の一角に、一粒づつ埋め込み、さらに土をぱらぱらと掛けた。藁をかけて覆った記憶は無いので、それは縄文の作法だったかもしれない。
 
黒い畑土を撫でまわし、草の根などを取り除き、大きな鍬を器用に傾けたり、ひっぱったりして栗の苗床をこしらえていた、祖母の腰つき、手つきが思い出される。
 
ももくり三年柿八年だから、三年くらいして祖母の育てた栗の苗は何処の家に貰われていったのだろうか。栗の芽が出たところを、祖母と一緒に見た事、その宝もののような栗の赤ん坊達がどんどん大きくなった記憶がある。
 
あれから50年以上も過ぎて、あの栗の赤ん坊達も年老いつつ、まだまだ実をつけているだろうか。それともその家の新築などの時、切り倒されてしまったろうか。
 
| ふるさとの暮らし | 08:46 | comments(0) | - |
栗原衆(くりばらしゅ)
故郷でも栗の実が落ちるころ、台風が来た。布団の中で、うちの「いぐね(屋敷森)」から栗の実が屋根に落ちる音と、風の音を聞き分けて、じっと風呂上がりの暖かさの中から祖母に頼んでおく。「明日、一番に起こしてけらいん。栗拾うから」
 
風の夜は沢山栗が落ちて、トタン屋根をたたく音が響くのだった。栗の実ばかりは、自分の家の「いぐね(屋敷森)」の栗さえも、一番早く起きて拾わないと自分の栗にはならず、一番先に拾った人に属するという慣習。隣近所の友達、通りかかりの大人などが拾っていく。
 
今から思うと、これは近代的私的所有の原則に外れている。そんなことは思いも及ばず、とにかく早起きに勤めるのが子供。私はどうしても一番に栗を拾うと言う事が叶わなかった。
 
三内丸山の遺跡が発掘されて、縄文の集落では栗を栽培して主食だったらしいと言う事を聞いた時、いろいろと思いは巡った。私の祖母は栗原郡から嫁いできた人で、家の方(玉造郡)では山を越えた栗原方面の人達を栗原衆(くりばらしゅ)と呼んでいたと聞いている。
 
栗の原の中に住む人々とは、まさに三内丸山の人々、栗原衆(くりばらしゅ)はいつの時かその文化をもって青森(北の方角)から移ってきたのではないだろうか。玉造側では、その人々が植え付け、やがて繁茂する栗林の連なる風景を目のあたりにして、彼らを栗原衆と呼んだのだろうか。
 
いぐね(屋敷森)の木に最後に残った実を落として拾い集めた分は家のものだったけれど、契約講、結いや入会地のような共同管理所有の慣習が、主食であった栗の実に於いて伝えられ根づいていたと私は思う。
 
栗原衆の顔立ちは、奥眼であって、顎が張り、鼻は実厚い。祖母も父親も、叔父叔母達もそんな特徴を持っていた。私も他人が見ればそうだろう。例えば俳優の菅原分太さんのような顔、この人は栗原衆だと聞いたことがある。
 
家の栗は丹波栗というのだから関西の栗の木だが、その栗の実も、玉造郡であっても、古代の人々の所有の感覚、互酬的な共同所有の形式であったと今思いあたる。主食であった栗の実は、屋敷森の実でさえもその家の私的所有ではなく、集落に帰属する。集団所有というべき形だった。
| ふるさとの暮らし | 18:01 | comments(0) | - |
慈愛あふれる人々
実は私は双子で後から産まれ落ちた赤ん坊。母はふたごとは知らず出産した。一人を生み落としてもまだお腹に子が残っていて、お産の最中に私達の集落の産婆「せおさんば」に双子と教えられていなかった事を抗議したというのだから。
 
抗議する母に産婆はただ「ほだー、がんばれ。」と答えたと言うのだが、これもどうだろうか。それから10分程で私は無事生まれ落ちている。当然の未熟児だった。
 
東北の3月初旬の寒さの中で、ほっておけば青黒く冷たくなってゆく二つ目の女の赤ん坊を、炬燵に深く入れて、両脇に湯たんぽを抱かせたと聞かされて育った。祖父の若い従兄弟がちょうど3カ月ほど前に女児(私の幼馴染)を生んで乳が多かったので、やってきてくれた。自力では乳も飲めない子に、ガーゼに乳を沁ませて唇をひたしてくれたと。そういうもらい乳だった。
 
翌日の朝、国鉄に勤めていた叔父は、朝出勤途中の私の父親から「二つ生まれた」と報告されて「山羊っこか?」と尋ね返したと。父親は「○○(母の名前)だ、○○(母の名前)だ。」と答えたそうだ。これは叔父から何度も聞かされた。
 
祖母の決まり文句では「わきの家(よその家)ならあきらめられた子だべが、利口なわらしだった。○○は猫よりました。」そうで、家から遠い「下の畑」に出かけるときは、四つ、五つになったろうか、祖母は私を抱き上げてリヤカーに乗せ、連れて行ってくれた。お昼はひいばあさんの実家の縁側でお弁当、お茶と漬物が出たにちがいない。
 
畑まわりで日がな一日、一人遊びだったのか、ひいばあさんの実家の男の子と遊んだのか。祖母に呼ばれれば、できる事は何でも手伝っているつもりの幼子であったと思う。
 
母は「せおさんば」を怒っていたけれど、小学校の通学途中の私に出くわすと、せおさんばは大声で「○○さんとこの双子だ。良く育った、大きくなったなあ。大きくなった。」とか言う。私はとてもきまりが悪かった。
 
このいきさつを今から読み説けばどうなるだろうか。多分、私は命が助からない筈の赤ん坊だった。母親さえも危ない。産婆の胸の内は、自然死、あるいは間引きもあり得たろうか。戦後の食糧事情の悪い、窮乏の時代、その家の5人目の子、まして女。
 
でも「せおさんば」も「せおさんば」で、取り上げた私に育ってほしかった、それが今では良く分かる。これが年の効だろうか。
| ふるさとの暮らし | 08:48 | comments(0) | - |
日本人の暮らし

昔話や絵本を読んで聞かせていても、今の幼児にはいちいち説明をしないと、その筋書きを理解させる事ができない。おむすびころりんも、ネズミの餅つきも、もも太郎も、はなさか爺さんも、浦島太郎も。

 

私達の時代、子供は生活の実感として昔話の登場人物の行く末を想像して喜んだり、悲しんだりだった。生活の中に土間があって、いろりの火も知っていて、芝刈りも体験済み、洗濯も川ですすぐ。目出たい時、人の出入りの時、餅をついて近所中に回した。ぺったんぺったんお餅つきである。

 

田植え、稲刈り、脱穀も昔ながら。昔ながらの農具を納屋から運び出して使う祖母の脱穀する姿、豆の殻を箕で吹き飛ばす傍らで遊んでいた。社会科の教科書の鎌倉時代の挿絵の農具がまだまだ健在で、どう使うのか分かって眺めていた。

 

冬は雪の中、重い荷物をうず高く背中に背負い上げて、赤げっとの4、5人が列をなして雪原を歩いてゆく様が目に浮かぶ。

 

それがもう、農具も、機織りも、竈も、餅搗き臼も、全部機械に変わって無くなり、博物館、資料館に入ってしまった。何十世代と続いていた農村の生活は、ほんの一代で変わったのだ。農村に暮らす人がほとんどだった日本人の、その生活がすっかり変った。

 

昔話も、説明が必要となり、人情もかわった。良くも悪くも急テンポで変わった時代を生きてきた私の世代は、民俗学的資料となってしまいそう、私などはその最たるものだ。

 

雪の舞う東京の空の下、故郷の、樽の中、凍った汁から掬い上げた、冷えた小さい漬柿の実の冷たさ、そしてすこし甘かった事が思い出される。

| ふるさとの暮らし | 15:54 | comments(0) | - |
祖母の針仕事

昔の女は野良仕事台所仕事、そしていつも針仕事をしている人達だった。

 

針刺し、糸、角ヘラ、まち針、縫い針、絎け台、指抜き、ぼろきれ、糸くずがごちゃごちゃと入った小さな行李を出してきて、ひまがあれば繕いものをし、洗い針して縫い直し、冬になれば足袋の裏を補強の為に刺し、孫のお手玉をつくったりしていた。

 

針を自分の耳の上辺りの髪の毛に持って行って、すっ、すっとこすりつけるしぐさを思い出す。針が滑るように、自分の髪の油で湿らすのだ。

 

祖母はめったに頭を洗わない。時々新聞紙を広げて、その上で長い髪を鋤櫛ですく。ごみですけない時は、油を付けて滑らせる。赤いツバキの花と目の大きな少女の挿絵が貼ってあるツバキ油のような気がする。初めは荒い鋤串、次に裏返して細い鋤串ですく。

 

抜け毛と垢とふけと、時には虱も混じってほろほろと落ちる。それを爪で潰す。それから元どうりに髪を結って、最後に一切を新聞紙でくるくると巻いて捨てる。戦前の農家の女はみんなそうだったのだろうと思う。

 

朝シャンの時代には驚きだろうが、そんなわけで、祖母の髪の毛はいつも湿っている。その髪の毛を時々縫い針でなぞるようにしながら、縫い進める祖母は結構幸せそうだった。針仕事は坐ってできるし、楽しい仕事だったのではないだろうか。ある意味創作活動というのか、端布をつないだり、工夫してきれいに仕上げる事ができる。

 

そんな祖母の針仕事の傍で、私はふきんに赤い糸で運針をして刺子の様に造ったり、人形の着物を拵えたり、針仕事のイロハを教わり、お手玉をつくってもらった。こたつ周りであれこれと楽しいひと時だったと思いだす。

 

洗濯もたまにしかしないが、するとなると毛糸の物もぬるま湯で丁寧に洗うと言う事を知らなかったので、フェルト化してしまう。固形石鹸をつけて洗濯板でよく擦り、家の前の用水路ですすぎだすのだった。

 

40年も前に亡くなった人だが、子供の頃一緒に暮らした祖母なので、その姿が恋しくてならない。私が中学生の頃が彼女の晩年だが、祖母は温泉町で商売をしていた彼女の末の弟宅に出かけ、温泉に入り、映画を見て、ごちそうを頂いてくるのが、精いっぱいの贅沢だった。

 

苦労を沢山越えて逝った人である。私も祖母のように幸せの空気をたくさん残して逝きたいと思っている。

| ふるさとの暮らし | 13:18 | comments(0) | - |
かきまめ畑

「はとこ」から故郷の新米が先程届いた。東北の農家はコメを作っても昔のように安定した生活は望めないのが昨今の米の価格である。肥料代が出れば、田んぼを荒らしたくないから作ると。そこで放射能禍を生きている。

 

「はとこ」とは、小学2年か3年ごろだと思う、自転車をこぐ練習を一緒に頑張った。

 

故郷の家々には、重い大きな鉄製の自転車が一台、そして重い大きな板性のスキーが一双あった。自家用車など想像もできない時代の大切な移動手段である。子供らはそれを乗りこなす事になる。

 

子供の背丈ではサドルに届かないので、サドルととハンドルの中央部と前ギヤ―の三点を結ぶ大きな三角形の中に片足を入れて漕ぐ、「三角乗り」の練習となる。

 

私達は同い年だが、その「はとこ」に誘われて、まだ舗装されていない土埃(つちほこり)舞い立つ国道に立ち、大きな自転車相手にこぎ出す。そんな子供達にかまっている大人はいない時代、膝小僧は傷だらけ、手足も引っかき傷、赤チンキを塗り塗り、かさぶたを剥がし剥がし、練習に励んだ事を思い出す。

 

男の子だから「はとこ」の方がずーっと早く乗れるようになり、私は「はとこ」の叱咤激励でやっとこさ乗れた。

 

思い出すのは、何度もかきまめ(エンドウ豆)畑に「むくれ落ちた」事、そのピンクの花、エンドウ豆のつるが這い上るための笹竹の枝に、頭から落ちては顔中引っかかれた事である。

 

「むくれ落ちた」後、あの大きな自転車をどのようにして引き揚げたものやら、器用で機転の利く「はとこ」の指揮で、えっさえっさと頑張ったのであろう。

 

ああ、あの頃の、あの日々の、土埃(つちほこり)舞いあがる国道のかなたは、はるか遠く霞たなびく美しい故郷の空であった。

| ふるさとの暮らし | 19:53 | comments(0) | - |
まわり道
今の子供達には通学路というのがあって、それ以外の道を通ると人目の無い所で犯罪に巻き込まれる。親の送り迎えもあるようで、みんな通学路を集団で歩く事、そのメンバーも決まっているのだろう。

私が子供のころは、田舎だし、何処を歩いても構わなかった。朝はそんなわけに行かないけれど、帰り道は色々と道草というのか、大川沿いの道、反対河原の道、畦道、山道、沢道、線路沿いなどと気分次第で色々な別道を友達と歩いて帰る。時には遠出してあちこち見当外れの集落を歩き回って帰る。

 

ああ、ここがだれだれちゃんの家だったかと思ったり。そんな子供を見ても誰も不思議に思わなかったのか、思われても気が付かなかったのか。全くのどかなものだった。

 

沢沿いの小道を抜けると、知った場所にでてみたり。胡桃の大木の下で雨宿りしたり。沢の上を走る用水路の樋の上を這って渡ったり。高学年になっていても通学も下駄履きだから濡れたってそんなに困らない。都会から転校してきた友達が感心していた。

 

沢の底からよじ登って、顔をだすと、ぱっと視界がひらける。やれやれ。

 

今都会はみんな同じ風景。四角いコンクリートのビルが並んでいる。ふるさとでは花渕山は西、大川は東に流れてゆく。何処の家の庭も、木も、畑も全部違う。そして土の臭い、草の臭い、木肌の臭い。蝉の声、沢の音。

 

ある日、河原沿いから山道にぬけたら、カタカタカタ、パタパタパタと音がする。立ち止まって見上げたら、すぐ頭の上で大きな蛇がとぐろを巻いた尻尾の先で、堅い葉っぱを叩いていた。

 

息が止まるほど驚いて、逃げて、逃げて、走って逃げた。
 遠い、遠い、今は昔、あの夏の日のこと。

| ふるさとの暮らし | 21:57 | comments(0) | - |
足の指

 

大正2年生まれの父親は、身長も160位だったか、猪首(いくび)であだ名も牛(べご)だったけど、徒手体操と言っていたが、名手で国体にも出たとかいう人だった。

 

この父は、奥眼(おくまなこ)で視力があった。それで朝、立ってネクタイを結びながら足元に広げた新聞を読む。さらに足の指で新聞をめくる。足元の脱ぎ捨てたふんどしやら、何やらを足指ですくい上げて片付ける。

 

縁側を歩きながら、散らかっている手ぬぐいなども、ひょいと足指でつまんで、すくい上げて片付ける。類人猿みたいだったと今になって笑う。

 

私の故郷は、今は放射能まみれだ。細々と畑を耕し、無農薬の野菜が届いたものだが、今年のお中元もまだしていない。お返しは、米、畑からのものみだ。田んぼの米はどうなるのだろうか。育った稲の青さを渡る風が香る季節である。

 

こんな時こそ、体力と思って、私は父を懐かしみつつ、ハンカチを床に広げてすくい上げて片付けるリハビリに取り組んでいる。私の足指は抗がん剤の副作用でしびれているから。

一つ一つできる事を積み重ね自分にできる事をするんだ。足指も随分と働く。

| ふるさとの暮らし | 10:38 | comments(0) | - |
 
+ 相談室


相談は、対面で行う会話です。色々な思いを抱えて相手の顔、姿に接して、自分の言葉、感情の動き、動悸などから、自分で自分を再発見する場です。
どのような自分でも自分は自分。それぞれの自分を大切に生きる手立てを見つけましょう。
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+ みらい21かなる

かなる(canal)は「運河」と言う意味です。以前の目黒川に面した6階の事務所から眺めると、目黒川がちょうど足下を流れているように見えて、まるで運河の上にいるようでした。それでベニスのグランカナールのイメージと重ねて、私達の事務所がいろいろな情報や物資を運び込むよう、21世紀の運河になるようにと名付けたものです。