みらい21かなる - 社会福祉士 山眞弓

みらい21かなる

TEL/FAX:03−3492−0735
ホームページはこちら ≫
自分を呼ぶ

昔は、そして今でも、苦しくなると施す、私の簡便なセラピーです。

苦しくなった時、風呂場とか、トイレとかで自分の声で自分を呼んでみます。

 

目をつぶり、小さな声で、自分の名前を呼んでみる。
            何度も、何度も、自分の声に耳を澄ませて聞き入る。

              その声は、誰の声? いつ頃の、誰の声だったか。
                                        幼い日々に聞きなれた声

 

昔、おばあちゃんが呼んだように、母親が呼んだように、父親が呼んだように。

      幼馴染が呼んだように、小学校の先生が呼んだように。

自分で自分をあだ名で呼んでみる。  愛称でよんでみる。

 

それから、自分を慈しんでくれた人達の笑い声を思い出してみる。

  その時の風景、日の光、山の色、風の声を思い出して、しばらく浸っている。

 

でもそんな事、思いつかない人もたくさんいます。
         
それでも、自分が作った、想像上の優しい人の声だと思っておく。

    誰なの?声を出して自分に尋ねて、声にして答える。

                        あの風景、あの人、光、木々の緑、もう会えない人などと。


しばらく浸っていて、そして、また活動開始するわけです。
          
 結構驚きがある。 自分には力が残っている。大丈夫。  
          

| ナラティヴな相談・セラピー | 07:28 | comments(0) | - |
冤罪
色々な冤罪被害者の言葉がネット、その他で広く伝わる時代となった。
検察捜査、自白調書の実際も語られ始めた。それも大人の社会の裏の真実だとすれば、子供の世界の学校裏サイト、いじめ、個人への誹謗や中傷も、大人の社会の縮図のようだ。

 

自白、どうしてやってもいない事を認める事が出来るのだろうかという疑問が、私にもやっと解けるようだ。自分が見た事もない殺人なので、空想上の辻褄あわせなので、調書を認める結果死刑になると言う恐ろしさ、それが現実問題として本人に迫まることができない構造か。

 

それが思いもよらない疑いをかけられたり、誹謗中傷される側の人間の状況か。分かるような気がする。空想上の問題なので何かふわふわとして自分の実生活の方からの発想、感覚の方が認識のベースにあり、行動を規定する。

 

そんな被害者の行動さえ、嘘に乗った周りの人々には詐欺師的人格、犯罪常習者的言動と映るのかもしれない。嘘の拡大再生産。

 

さらに、嘘を信じた、加担したと言うことが、気の強い人なら己の無謬を主張せんがため、優しめの人ならば罪の意識の封印を求めてか、人によっては無意識のうちに、罪の意識の反動のように攻撃的な防衛、更に苛烈な誹謗中傷を繰り返すこともあろう。

 

みんながマインドコントロールされる仕掛け。これを乗り越えるためには、その経過の可視化をもって防ぐより術がないのではないだろうか。嘘が何所でどの様に作られ、流布されるのか、その経過の可視化、透明化。

一人一人が自分の目で見て、経過を知って、冤罪被害の人の実像を見て判断する事ではないだろうか。
落ち着いて多方面から考慮する大人。それが子供達の行動パターンにも反映するだろうから。

| ナラティヴな相談・セラピー | 23:24 | comments(0) | - |
ナラティヴナセラピーとコミュニケーションスキル
セラピーや、癒しと言うのは、結局自分がありのままの自分をもって、どのように人とコミュニケーションして行けるか、その途、その方法、スタイルを、自分なりに掴むことかと思う。

いかに自己を開き、表現するのか。ありのままの自分でいてよいのか。ありままの自分とはどんな自分か。自己の成り立ちを自分で確かめる。

何を恐れているか、何から自分を守ったか。守れなかったこと。誰に合わせて生きてきたか。合わせすぎたのか。

何が苦しいのか。何が自分をぞっとさせているのか。何が自分を見捨てようとしていたか。どんなに見捨てられたくなかったかなどを。

面接は、自分を語る舞台。抑えてきた自分を開き、自分の喜怒哀楽を解き放つ事が出来れば、それは最良の面接。

それから、そんな自分をどう愛し、どう抱えていけるのか。その感覚をつかむ事が「セラピー」かもしれない。
| ナラティヴな相談・セラピー | 18:20 | comments(0) | - |
いじめ
芸能人のブログにその人への攻撃を書き込み、その書き込みが多くの誹謗中傷の書き込みをさそい、顔の見えないところの発言なので、言いたい放題となる。とうとうブログを閉じる騒ぎになるという。

自分とは違う考えに対して、自分との差異、違いをことさらに言い立てて、一般人とは違う変なやつ、死んでしまえと言う勢いなのだろうか?

これは、子供の世界のいじめと同じ構造とも思う。子供の世界は大人の世界の縮図。以前東村山で地域に開いた精神の自立センターの試みをしたが、苛めの相談もあった。

苛められる側からみると、自分の日常の生活、言動について、思いもよらない解釈がなされていく。きたない、盗もうとしている、知ったかぶりをしている、わざとぐずぐずしている、くさいなど。

このような事態に直面すると、大人の場合でもこの事態を認めない、無意識にそれを認知拒否状態において身を守ろうとする。たとえば癌の場合、人によっては自分の癌を認めない為の思考回路を巡らす。疾病拒否である。事態が進み、もう認めざるを得なくなり、現実が押し寄せる。

いじめの場合、子供も同じ。まるで現実逃避のふわふわの世界。それが行き詰まり相手の悪意、攻撃の中身を考えて対処する事になる。すると、これまでは思いも及ばなかった、自分を否定、抹殺する相手の論理を知る。それは自分を抹殺する悪意の論理を、自らの思考回路において初めて追跡する事。この営みが、いつのまにか、その悪意の思考回路を、自分で、自分の中に刷り込んでしまうかに思う。

その苦しみはまるで、自分が自分を敵として戦いを開始する運命。いわば、自己免疫症候群。他人のわずかな態度の変化も、いじめる側の論理で解釈して、自縄自縛、自らを攻め、逡巡し、動けないところがある。

この病を抱いて、どのように生きて行けるのだろうか、その人は自分をどこにどう置いて毎日を生きるのだろうか。人により千差万別だが、結局ありのままの自分を、そのまま認めてくれた人々と、観念的であれ現実生活であれ、「繋がっている」と本人が思えるところにあると思う。

「そうではない、私はそうではない」と主張しようとする自分を、自分でその成り立ちをたどり、我とわが身を受け入れ、声に出して「違う」と言えるところ。そこまでが、この病を抱いた者が、生きる第一歩かもしれない。

いじめる側とやや対等になって、自分の事を表現し,コミュニケーションする前提ができるよう、そこでの逡巡に対応できるナラティヴなセラピーでなければと思う。
| ナラティヴな相談・セラピー | 14:34 | comments(0) | - |
ナラティヴなセラピー
昭和32年ごろに、はやった歌に《柿の木坂の家》というのがある。
春になると柿の花が咲き、めじろが飛んでくるという、ふるさと歌謡である。そして「馬の市」がたつという。

この歌の舞台のような村で育った子供の私には、最大怖い物は山火事であった。村の半鐘が打ち叩かれ、近在の子供達は、火のみえる縁側に、一塊になって身を寄せ合い、遠い火事を眺めた。その時、私の恐怖と、そこにいる人達の恐怖が、それぞれ異なる形をしているとは思った事も無い。

50年過ぎて今、私の恐怖、無念は私個人の思い。喜びもまた周囲の人達とは形が違う。周りの人々はすべて他者であった。これが不安の根源。

あれは日本の村落共同体の共同性、私はその心性を生きた最後の世代であったろうか。そして今、私達は、自分と自分の恐怖の間に、それを語るそれぞれの自分を見出さなければならない。それぞれ語る自分の視界は、狭いであろうか。

狭さには狭くなければ越えられない経過が横たわり、生き延びるための希望が隠れている。

その希望の手触りを、ナラティヴな語りでさがす。語る人は、恐怖を、そして不正義さえを、「自分の目」で語る。他者の目や、常識から解き放たれて語り続ける時に、いろいろな自分と、その自分を慈しむ途をさぐりあてる。

自分を呼んでみる、古い自分、今の自分、苦しい中の自分を呼ぶ。

自分の怒りや苦しみの成り立ちを知り、その自分を見守るもう一人の自分を育てる、そんなカウンセリングが欲しい、そんな時代だとおもう。
| ナラティヴな相談・セラピー | 11:18 | comments(0) | - |
 
+ 相談室


相談は、対面で行う会話です。色々な思いを抱えて相手の顔、姿に接して、自分の言葉、感情の動き、動悸などから、自分で自分を再発見する場です。
どのような自分でも自分は自分。それぞれの自分を大切に生きる手立てを見つけましょう。
+ お問い合わせはこちら
TEL/FAX:
03−3492−0735
+ みらい21かなる

かなる(canal)は「運河」と言う意味です。以前の目黒川に面した6階の事務所から眺めると、目黒川がちょうど足下を流れているように見えて、まるで運河の上にいるようでした。それでベニスのグランカナールのイメージと重ねて、私達の事務所がいろいろな情報や物資を運び込むよう、21世紀の運河になるようにと名付けたものです。