みらい21かなる - 社会福祉士 山眞弓

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裁判官をコントロールする力(7)
 

正義の女神Justitiaユースティティア)

 

ローマ神話の正義の女神ユースティティアは欧米においては司法の象徴であり、日本の最高裁にも飾られていると言う。彼女は、目隠しをして天秤を持っている女性像である。正義は中立の立場で(目を閉じて)、秤り比べるべし(秤を用いる)という事を、形にしている。

 

しかるに今回の登石郁朗判事は大きく司法官僚側、自分の出世に目を見開き、10名居ると言う自民党を含む大勢の政治家の収支報告書の記載状況、その後の処分等との比較秤量をせずに、判決文を完成させた。

 

一国の将来に大きな影響のある政治的影響の強い判決を、同様の事例との、一片の比較秤量無い作文において、彼の閉じた「主体の思考」により引き出した判決文である。

 

このような被告側の人権に全く配慮せずに、時の権力側に極端に有利に働く判決文を書いているのは、買収されたと考えられてよいだろう。このような判決が判例を形成する事がないような司法制度の改革を考えなければならない。

 

買収されると言う事は、自分の利益の為に大勢の国民大衆、同胞をないがしろにして、売る行為である。同胞にどんな不幸を、悲惨を、ばら撒き、強いるのか。倫理的に、道義的にもっとも許されない深い罪である。

 

これが常態化しているのが、日本の裁判所、司法当局と言う、今や逆説の国家「日本」である。

日本人にはどのような未来があり得るのか?放射能を避けて難民化するにも限界がある。我々の遺伝子はどのようにしてか生き延びる為の改革、革命を求めている。そのための理念、力を作り上げる事が肝要な時を迎えていると思う。

| 裁判官をコントロールする力 | 10:57 | comments(0) | - |
判決をコントロールする力(6)

情報公開と衆議公論

 

私は、センの公理分析の手法、社会福祉ニード調査のあり方を念頭に、判決の法理逸脱度とその人事環境との相関関係などを指数化し、判決の中身を評価する事を想定している。

 

採用された証拠、されなかった証拠の全てを明示して、その裁判官はどのような証拠、事実のうち、どの証拠をどのように重みづけて、判決を書いたかを通して、その裁判官の法思考の偏りの度合いを、現代法理に照らしで測る事を想定している。

 

ところでアマルティア・センの貧困測度などは公理分析の手法を採っているが、この手法は、その評価プログラム(貧困測度)が、どのような立場、考え方で、何に重きを置いて貧困を眺めているのか、それを顕かにできる統計上の縛りを、[公理」として明示するものである。

 

貧困のような多焦点的な事象の評価に際しては、多くの異なる考え方、立場があって、評価に際して、価値中立的である事を目指しても、一定の価値評価を含まざるを得ない。そこで、それぞれの寄って立つ立場、価値規範性を顕かにした上で、評価した値を検討し合うと言う感じであろうか。(公理分析と呼ばれる)

 

自らの立場を明示して、どんな理由で、その事象を評価するには、その形式を採る事が妥当なのか、それをプログラム自身が説明するわけだ。一つの判決の評価を巡っても同様であろう。評価プログラムのもつ価値規範もまた、明示されるべきであり、明示される事が必須である。

 

そうでなければ、様々な考え方に基づく評価の妥当性を説明できないばかりか、評価を金科玉条にして、さらに進化したファシズムへと向かう可能性もあり得る。

 

このような試みの本質的な効用、機能は、その判決が、裁判官個人にどれだけの利益を生じ、判決の影響下の人々(被告、国民一般)にどれほどの悪影響等、悲惨等を生じ、法思考がどのように偏っていたか、それを俎上にのせる事であろう。

 

検察が起訴した99.9%が有罪、裁判官自体が検察側に立つ国の、当事者主義を無視する国の司法改革を考えざるを得ない。判決(裁判所の仕事)の事後評価システムの存在、その公開は、多くの冤罪の抑止力ともなろうか。

| 裁判官をコントロールする力 | 21:20 | comments(0) | - |
判決をコントロールする力(5)

判決の法理逸脱度と、判決後のその裁判官への利益関係を把握するために

 

たとえば、日本の裁判所の出す判決の傾向を、その法理逸脱度などを測ることは可能かもしれない。アマルティア・センは貧困という社会の状態、他重層的な事項からなる問題の程度を測ろうとした訳である。

 

一つの判決が及ぼした政治的、社会的影響の度合い、その裁判官のその後の出世の度合い、その裁判官を差し向けた時の司法官僚のメンバー、そして判決の法理逸脱度、これらの度合いを把握して指数化する方法を考える事はできるであろう。

 

現在のコンピューター技術は、専門家であれば、そう多くの時間を費やしないでプログラムはできると思われる。ここで法原理からの逸脱の度合い、現代法理論の守るべき諸原則、それは刑事訴訟法上の原則に加えて、利益相反関係に近い論理、一方に有利に曲げる事がもたらす、裁判官自身への人事的、経済的な利益との関係が問われるべきであろう。出世を餌にするコントロールとすれば。

 

そしてこのプログラム、測度(指数)は複数でなければならない。3つ、4つ、それらを比較して準順位的な優劣関係を構成する事はできよう。

 

また、その裁判官の出した判決が、優れて社会正義を体現した場合にも裁判官はいわゆる出世を果たすであろう。そのためたとえば「在る法」のハートに言う一次ルール、二次ルール的な法解釈の変化の動向についても、吟味が必要であろう。

 

しかし、それら指標の評価が一定水準以上の場合、その裁判官の出した判決は、優れて判例法を形成する資格があるかどうか、これを吟味され、事後評価に付される必要があると推定され得る。

| 裁判官をコントロールする力 | 23:54 | comments(0) | - |
判決をコントロールする力(4)

人事による裁判官のコントロール

 

最も重大な問題は、人事権を背景にする裁判官のコントロールであろう。

 

民事では、利益相反関係にある人は代理行為はできない。無効だったか、行為不能ではないだろうか。

刑事の被告側と、検察(国家)は相対峙して刑事法廷を構成しているにもかかわらず、両者の主張を裁定する裁判官が、一方の当事者、検察と実は一体であり、一体である事によって人事的に優遇されるのであれば、これは構造的に不公正を孕み、非正義を産み続ける可能性は、大である。

 

裁判官が検察と一体である事によって得た利益の動向を評価する必要がある。

 

この俗世的な利益をからめて拘束する力、10名と指摘される司法官僚達、この組織が行ってきた人事の精査が必要である。この人事権によるコントロールシステムの成り立ちにさかのぼって、どの10人の構成の、どの時期に、どのような人事交流が行われ、誰がどのような判決を書いたのかは分かる。

 

この人事交流の拡大は文書を残さずに実行したそうだが、この企てが、文書に残さなかった程の、民主国家運営の根幹のルールを犯している事を承知して、実行者達は実行に移したのだと、私は邪推する。

 

このようなシステムにおいて、これまでは判決を書かせれば、あとはOK「しめしめ」であった。しかし登石郁朗判事の今回の判決のような、特に政治がらみとなる案件については、判決の事後評価が必須ではないだろうか。

 

判決以降の、当該裁判官自身への人事的利益、当事者を取り巻く政治状況への影響、法思考の偏りなどについて、その後生じた「事実関係」をもって分析し、その判決を事後的に分析的解明、評価する事も必要である。

 

仕事を誰にも客観評価されない稀有の世界が裁判所である。国家政策もその効果を、費用対効果などと評価されるのが福祉国家以降の流れであろうか。

| 裁判官をコントロールする力 | 21:51 | comments(0) | - |
裁判官をコントロールする力(3)
市民参加の危うさ

 

裁判官の独善性、恣意なる思考回路に対して、実際の日本社会の中の価値規範、市民的価値体系からのチェックの回路が必要という発想で、市民の判断を入れると言う傾向には、しかし大きな問題がある。

主体の思考の及ばないところ、集団の意思を形成するのは、現代ではマスメディアの動向である。ネットによる情報が無かった時代の自分の思考を思い起こせば良く分かる。

 

そこで現実の社会の中の生きた価値体系の反映として、簡便に市民の声を支持する事も出来ない。「市民の声」が歴史的今における社会の意思であるというのは、大いなる幻想である。

現実には一般市民の善悪判断、価値判断は、大手マスメディアの情報操作によりいかようにも曲げる事ができる、現在権力を持つ側の意のままにコントロールされ、いわば騙され続けてきた歴史が、大衆、私達の歴史であろう。

 

太平洋戦争時の国民総動員、「欲しがりません、勝つまでは」を見れば分かる。そして非核三原則。これは国民をなだめ、反核の政治的な力を削ぐための虚構、嘘であった。私達は知らずになだめられ続けてきた。小沢一郎氏へのマスコミの偏ったイメージ操作、常道を逸した異常な人格像を見ても、それに疑問を持たずにいる人々も存在する。ナチスの政権を熱狂的に支持したのは当時の大多数のドイツ国民、ナチスを支持しない事が悪とさえ思い込ませられている。

 

ここに裁判官の観念性に対する抑止力が市民の判断であるとはストレートには言えない構造がある。裁判員制度などはこの幻想を国民に定着させようとする、現在の司法官僚裁判所主導で行っているトリックなのかもしれない。

この体験の中で、司法官僚の予期せざる潜在能力を、国民は開発するのかも知れないけれど。

| 裁判官をコントロールする力 | 23:23 | comments(0) | - |
判決をコントロールする力(2)

理性や主体の思考と言う観念の一面性

 

カント的なのかどうか分からないが、理性的に論理的に定立できる正義があって、人は自律的にその妥当性を認める事ができると言う前提で積み上げられているのが近代法だろうか。この近代人が措定した理性、主体の思考、近代的自我などの根本を揺るがしたのが、フロイドの潜在意識と、レヴィ・ストロース、文化人類学の「構造」である。

 

例えば文化人類学では、神話、民族の記憶など(シンボルなど)があって、理性、主体の思考の手の届かない所で主体の思考を包んでいる、そういう構造があると指摘した。さらに有名なフロイドの無意識の領域は広大無辺である。ユングはヨブへの答えの中で言う。カント的理性も不可視というべき広大無辺なる領域の上皮にすぎないかもしれない。

 

この二つの潮流は近代の「主体の思考」「近代的自我」「理性」などに大きな疑問を投げかけて、現代思想として今に至っている。

 

裁判官の法的判断の論理的展開も、「長期的な自己利益や他者への配慮からかもしれないし、無反省に伝統や習慣に従っている」可能性は否定できないだろう。閉じられた観念性は、まずその狭隘さ、限界を指摘されて良いと思う。裁判官の法的思考にも限界があるのだ。

| 裁判官をコントロールする力 | 11:17 | comments(0) | - |
裁判官をコントロールする力(1)
今回の小沢一郎氏の秘書への判決は、歴史に残る、国家(司法)による人権侵害判決である。この判決を出し得た日本の法システム、その背景たる日本社会はいまだ太平洋戦争当時の社会性を脱していない事を天下に知らしめた。

 

近代法は1265年、シモン=ド=モンフォール議会が有名なように、国王の無茶な課税と不当な逮捕に抵抗したのが、その起源だと言う。今日本ではこの両方がまかり通っている。700年も歴史を逆戻りしている事態だ。

 

そこでこのような裁判官の判決を判例としなければならない日本の司法は、このままでは亡国の極み、非正義の牙城となっているので、司法改革はどんな事が基軸となるべきなのかを考えざるを得なかった。

 

大きな問題は二つだと思う。一つは、この裁判官の思考に明らかだが、判決文を支配する一裁判官の理性による吟味は、近代法理論の観念性は、閉じられた宇宙として、向けと言われればどんな方向へも向いて完結できる構造である。これを、現実の社会の規範原理と乖離しない、客観性、妥当性を確保するための近代法の原則との関係において、判決を相対化する途を開く事であろう。

 

判決文を支配する一裁判官の理性による吟味、閉じられた観念世界を相対化する事はできるだろう。だがその上で最も深刻な問題は、個人の理性による吟味を曲げる為の手筈が、日本の司法内部に打ち固められている事実である。

 

裁判官を俗世的な利益をからめて拘束する力が指摘されている。司法官僚といわれるのは一握り、10名の官僚が握っている裁判官人事制度である。これは現在の判官交流の悪弊の成り立ちにさかのぼって検証しなければならないだろう。

どの官僚、メンバーの構成で、どの時期に、どの人事交流が行われたか。文書を残さずに実行したのだから、この企てが、文書に残さなかった程の、民主的な国家運営に係わるルールの根幹を犯している事を実行者達は承知している。その上で実施した悪行である。

 

人事権を背景にして造りあげた司法官僚システムの中で、閉じた観念世界の恣意性を装って曲げられた判決は無効、判例法足り得ずとして除外するルールを形成する必要がある。そのような改革が必要であると考える。

 

| 裁判官をコントロールする力 | 21:33 | comments(0) | - |
 
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かなる(canal)は「運河」と言う意味です。以前の目黒川に面した6階の事務所から眺めると、目黒川がちょうど足下を流れているように見えて、まるで運河の上にいるようでした。それでベニスのグランカナールのイメージと重ねて、私達の事務所がいろいろな情報や物資を運び込むよう、21世紀の運河になるようにと名付けたものです。