みらい21かなる - 社会福祉士 山眞弓

みらい21かなる

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台風・核戦争・テロ・インドの安倍総理夫妻

台風18号は、急速に大きくなり、日本直撃とか。その上北朝鮮のミサイル発射、襟裳沖に落下、8月29日の(火星12号 襟裳岬着水・失敗)をやり直し、成功が怖い。

 

アジアでは「ノーベル平和賞だったアウン・サン・スー・チー国家顧問率いる政府とともにミャンマーを統治している軍指導部は、ロヒンギャ問題で民族浄化を行っていると非難されている。イスラム系少数民族ロヒンギャの村落で掃討作戦を展開し、数十万人のロヒンギャが隣国バングラデシュに逃れている。」これでアルカイダ報復があるとか。

 

イギリスでは、今年になって、22人が犠牲になった中部マンチェスターの爆弾事件を含めて4件のテロ事件が発生。今回で5件目が15日午前8時すぎ(日本時間の15日午後4時すぎ)、車両の中に置かれていた不審物が突然爆発し、22人がやけどなど。

 

そして今、日本の安倍自公政権を率いる安倍夫妻はインドへの外遊中。インドへは原発、新幹線を輸出している。インドは原発大国。

これらのバラバラに見える時事問題の間を繋ぐものが、有りはしないのだろうか?

 

 地震・かみなり・火事・おやじ
この4つが昔は怖いものの代表だった。ぜんぶバラバラに起こる。かみなりとおやじがならんで怖かった、のどかな時代。今地球は地殻変動の時代を迎えているのか、温暖化、熱帯のスコールのような雨が降り、福島の地震以降は各県、各地域で、地震が頻発のような気がする。

 

でも、もしも現代の科学技術で、局地的な雷雲、雪雲、海上では小さな台風など、人工的に作れたらどうだろうか?偏西風に乗せてしまえば、後はシミレーション可能かもしれない。何か、世界各地では政権への不満が鬱積する頃に、大きな地震、津波、台風、火事が直撃するような、データを集めたらどうなのか。自然現象、人為的現象、双方の可能性をにらみつつ。

 

 ミャンマー(旧ビルマ)で「イスラム系少数民族の浄化?」
ミャンマー軍がイスラム系少数民族ロヒンギャの村落で掃討作戦を展開し、数十万人のロヒンギャが隣国バングラデシュに逃れているとの報道。

 1年前、アウン・サン・スー・チーさん圧勝を支えたのは国の90%に及ぶ仏教徒。インド・バングラデッシュに隣接するこの地域では、イスラム教徒も多い。イギリスの植民地だったから、独立をめぐり、宗教対立がイギリスの植民地支配、政策運営に利用され、民族の葛藤が重なってきていると。

 

新政権、1年目、もう宗教対立。民族浄化とは、インド独立と同様の轍を踏むのだろうか? アウン・サン・スー・チーさんの夫はイギリス人、若きアウン・サン・スー・チーさんを、英国諜報員(スパイ)が目的をもって、独立の父の二世、彼女に接近、結婚したと言う噂まで拡散されている。

 

隣国インドは、非暴力のガンジーを聖人にして、カーストと宗教対立を抱えて苦しむ社会。西欧人のアジア人支配には、国内の宗教対立と伝統文化(慣習)が悪用されるようだ。儒教文化、忖度文化、長幼の序の変形、二世、三世を重用して、国民を心理的に囲い込んで従わせる?この方も建国の父の2世、韓国の朴 槿恵さんと同じ。

 

今ミャンマー、かつてのビルマの竪琴の国は、インドの戦後の歴史のような、その不幸をなぞっている?インドでは故ネール首相の一族達は全員暗殺されている?

 

 ムンバイ(旧ボンベイ)、コルカタ(旧カルカッタ)、チェンナイ(旧マドラス)へ
そのインドだが、2011年8月1日に日本とインドの包括的経済連携協定(CEPA)が成立、発効後1年間(2011年8月〜2012年7月) の貿易総額は約1兆4,332億円(前年同期比+4.8%)。 近年、インドは我が国円借款の最大の受取国(2016年度に供与決定した円借款の総額は約3,713億円)。

 

現政権、モディ政権は,2014年5月の総選挙で歴史的大勝を収めて成立。発足から2年半以上が経過し,2019年5月頃予定の次期総選挙まで折り返し点だと言う。

 

「黄金の四辺形」と言われる、首都デリー、商都ムンバイ(旧ボンベイ)、東部・南部の中核都市コルカタ(旧カルカッタ)、チェンナイ(旧マドラス)の4都市を結ぶ最新設備の高速道路も2007年春完成している。これらイギリス名の都市が、伝統的な名称に変わった事情について、「インドの歴史を『反英・反植民地』で全面的に見直そうとする大きな潮流の発端」との指摘がある。 

 

  ヒンズー至上主義と新政権 
民族義勇団(Rashtriya Swayamsevak Sangh、略称:RSS)は、インドのヒンドゥー至上主義団体で、1925年医師のケーシャヴ・バリラーム・ヘードゲーワールらが創設した文化団体だという。

 

この1925年とは、第一次大戦1918年終結後、1929年大恐慌の間、ナチスドイツの結党が1919年1月、指導者原理に基づく指導者(ドイツ語: Führer)アドルフ・ヒトラーのカリスマ的支配で政権獲得に動く、その頃である。

 

インドのRSS(民族義勇団)は、社会運動団体に留め、直接は政治活動を行わない建前になっていたが、2015年の選挙で大勝利した現与党「インド人民党」の「創設メンバーの殆どは民族義勇団出身・関係者であり、同党の事実上の前身、或いは同党の私兵集団とも見られ、極右過激派、ファシスト視する批判もある。」と。ヒンズー教徒至上主義、他宗教は撲滅だという。宗教対立必至だろう。それがアメリカCIAの狙いでもあろうか。

 

またRSSは、「ヒンドゥー至上主義者が反ムスリムの立場からシオニズムを支持していたことから、近年ではイスラエルと連携を深めている。」と。現インド首相のナレンドラ・モディ(2014-)は、元グジャラート州の首相で、「このメンバーの一人として有名である。」ウィキペディアより

 

現在、RSSは250万から600万人のメンバーを有するとみられている。普段の主な活動として、棒術の格闘技訓練を通じた青少年の心身鍛錬を各地方で行っている。

 

こうなるとRSSは、インド版「日本会議」のようでもあり、今北爆危機が煽られ、大規模台風が襲う日本の首相が何故にインドに外遊なのか、その不思議が、氷解、謎は解けるのではないのか?

 

  RSSの教科書改訂は、日本会議と同じ?
注目点が、インドは独立後、ミサイルや核関連技術の開発と平行して原子力発電所の整備計画に着手。1958年に民生用原子力開発を推進するための原子力委員会(AEC)を設置し、69年には初の原発(タラプール1、2号機、米GE製)の商業運転を開始している。しかし74年に強行した初の核実験によって諸外国からの原子力協力が打ち切られ、独自の技術開発を進めることとなる。80年代以降も原発建設は着々と進み、現在では20基・総発電能力478万kwの原発が稼動している(図表1、2)。

http://tajimaiclc.at.webry.info/201104/article_16.html より

 

そして21世紀の今、インドには、世界史も、インド史も書き変えた教科書が、現モディ政権により配布されていると。

註1)http://diamond.jp/articles/-/134435?page=2
 

インドのカースト制度はヒンズーの文化として、英国植民地支配の道具となり、英国軍隊に雇われる事ができる上級カーストも創られた程。差別される身分の人々の人数さえ今もって把握できない社会であり、最大で80%との数字もある。職業も居住地域も、カーストにより指定される劣悪な条件を生きている人々に対して、国民の3割程の、上級カースト者のマンパワーで、 brics(ブリックス)入りしているとも言う。不可触民のヒンズーから仏教への改宗は引き続いている。

 

 イギリスのテロ
北爆危機が騒がれ、アラート鳴り響く日本に来日、安倍総理とお茶会を楽しんで帰国した英国メイ首相に予定されていた日程は謎? 表には出ない任務があったのやもしれないとか?この人の国に安倍総理が原発輸出、1兆円の援助付き、これは何を語っているのだろうか?

 

英国にアメリカCIAの軛(くびき)原発を受け取る新首相、この人は小池百合子さん同様、女性に受ける人で、おしゃれで、哲学が欠如っぽい人か?今後EUの統合に反対したサッチャー同様に、ヨーロッパ社会に紛争、アラブの戦争の推進国家として英国が機能するための人材であったことを、北朝鮮ミサイル発射危機さ中の、お茶会が語っていたりしない事を祈る。

 

そしてイギリスでは今年に入ってからテロが頻発、今回で4度目。これはイギリス国民を思考停止に誘う、捏造されたテロ、CIAの自作自演等もあり得るのかもしれない?政情不安定、テコ入れが必要ならば、チェルブノイリもあったのかもしれない?メイ首相への援護射撃、英国民の思考停止を誘う事ができそうだ?

 

 北朝鮮の核開発・電磁パルス攻撃(EMP)
そして日本では、連日の北朝鮮の核兵器がマスコミを覆っている。でも安倍総理は外遊中、これが北の核兵器騒ぎの裏側を語るのではないだろうか。アメリカCIA達(安倍総理達も)北の核攻撃をマスコミ煽らせて国民を思考停止に陥れつつ、自分達は着々と、世界中に原発を拡散する仕事を進めている。

 

何故原発と言う原子力発電の平和利用は、北の核戦争脅威より、重要課題となってしまうのか?それほどの重要事項なのか。それは原子力の平和利用(原発)も核実験も実はかぶっていて同じだから?原発がアメリカCIAの最強の軛(くびき)かも?北朝鮮の核実験の方は、今か今かとポーズだけで、何だかのアメリカ側からの報酬を得ない限り、実行できない構造にある?

 

アメリカCIAと北朝鮮は、齟齬を抱えつつある、雇い主と雇われ実行部隊なのかもしれない。そういう仮説をもって毎日のニュースを読み込む事も、有りではないだろうか?この頃マスコミは、電磁パルス攻撃(EMP)については語らない?インドで安倍総理はどう「日本会議」を励まされたのだろうか?

 

 日本会議の歪んだ日本文化は反対
インドの現政権の配布する教科書は非科学的に歴史捏造が激しいらしい。現政権、日本会議、稲田元防衛相の言う教育勅語の世界だろうか。嘘を担いで仲良し、嘘で騙して仲良しが、安倍自公政権、教育勅語の世界であろう。親にもならず、夫婦関係をも体験しない若い日本人世代が増えているのに。

 

生きる目的は仲良くする事がすべてではない、嘘で騙して仲良しには裏がある。本音での幸せが大切だろう。幸せは人それぞれ、自由に決める事だろう。国が決める形だけを押し付けられるのは不幸である。

 

公明党の御本尊様は、安倍自公政権が進むと、日本会議の国家神道に排斥される運命かもしれない?汚れ仕事の指示系統を文書化して、いざと言う時の切り札を確保しないと危ないのかも?小池さん達は、若狭さんの出自が語るように、最高裁事務総局が裏に居るような。でも駒として動くとしても、本命ではなく、その二軍的な感じかも?秘密結社だとか言われているようだ。

 

ここは宗教対立、イデオロギー対立は避けて、国民の生活、安堵が一番を軸にして、纏まる事ではないだろうか。回り道もあるので、左翼も、右翼も正義ばかりを振りかざさない事だ。回り道さえ閉ざしては困るのは国民だ。

 

 CIAの軛(くびき)原発を廃止し、日本の真の独立を 
私達は、無差別平等、宗教を問わず、イデオロギー対立せず、出自を問わず(親のコネ社会、二世、三世議員反対)国民を分断せず、融和政策ではないだろうか。

 

いざと言う時の為に、食料の自給率を高める方向で、耕作放棄地を再生して、地場野菜、養鶏、牧場などと。ポスト核戦争時代へ向けて、社会を組み直す政策、政権だろうか。何よりもCIAの軛(くびき)原発を止めないと奴隷状態から抜け出せない。

 

世界史的な転換点、マスコミのニュースにしかと注目だ。ここは生産工場の国内操業を目指しつつ、新しい社会保障のある、安全な食料を生産する農業立国。その方向で少しづつでも動く、嘘を言わない、正直な政府を立ち上げよう。その中に、日本の国が、こつこつと生き延びる途が、産まれて来る時代なのではないのだろうか?

| アジアの歴史 | 10:22 | comments(0) | - |
イギリスのインド支配と日本の今

さて今、目黒駅界隈には、アマゾンの本社が移転してきて賑やかになり、インド人らしい人々とはよくすれ違う。彼達は英語を話すので、海外で雇用され易い。それはフィリピン人達と同じだが、IT産業に多い。IT産業はカーストと言うインド伝統の過酷な身分制度、その世襲的な職業指定の無い、全く新しい職だから、とも言う。

 

 .廛薀奪掘爾寮錣ぁ 2012.06.10 Sunday
インドの国は、17世紀には英国の東インド会社(実際は要塞で現地有力者と交渉、戦闘もした)を設立されて、仏との権益争奪戦(カーナテック戦争(1744 年 - 1763 年)の後、英国の東インド会社がムガール帝国から徴税権を握っての植民地支配となった。

 

この英仏戦争の終盤が、1757年のプラッシーの戦い。英国側に買収されたインド人の将校が自国ベンガルの太守の命令を無視して出撃せず、これが原因で英国が勝利した。買収した側のクライブ成る人物は英国で当時英雄になったそうだ。そしてクライブ将校側の傀儡政権を立てて、結局ベンガル地方の徴税権を獲得してしまうのだから。今の日本の野田総理らの面々、日本の現状、未来と重なる。

 

この戦争では戦う兵士もインド人がほとんど、フランス軍6800人の内白人は僅か50人。インド社会はカースト社会、カーストの上位クラスのみをイギリス東インド会社が雇い、カースト制度を利用し、また宗教上の対立も利用してインド人同士を戦わせている。支配者イギリスと戦うのではなく、インド人同士が英国の利益、インド人の悲惨の為に戦った。

 

そしてインド人達には、その前のベンガル太守の時代の数倍の税を徴収し、税を増やすだけでなく、インド農民に高く売れる商品作物の栽培を強制し、綿布の染料に使う藍や、麻薬アヘンの原料となるケシなどしか作らせない。小麦など食糧をつくるべき畑で、食糧を作れず、藍やケシをいくら栽培しても、腹の足しにはならず、この結果、飢饉が激増する。

 

この後インドでは大飢饉が連発、100年の間に20数回、2200万人以上が餓死している。インド社会はイギリス支配によって貧困化して行った事が分かる。

 

◆.妊ン高原の肥沃な大地
TPP以後の日本農業は、国際市場での利益優先の農業へと向うのであろうか。しかし今回、中国では日本農産物の福島原発事故の放射能を危惧した排斥も起こっている。世界中でこの傾向へと動くのではないだろうか。

 

国内では、マスコミ総動員、政府主導で農産物の放射能リスクは、風評だと言う事にしているが、人類が初めて経験する規模の放射能事故であり、その影響は不明。時間経過とともに何が明らかになるのかは不明というべきであろう。

 

風評か否か?日本の農産物が世界市場を席捲する事は、想定しにくいのではないだろうか。東京のスーパーでも、関西勢産品が高価、関東勢は安価でも売れ残る。海外では関西も関東も見分けがつかないであろうから。

 

日本の農業はさらに国内向け、労働力投下型の、日本的農業スタイルにシフトして、サステイナブルな農業ではないのか。TPPやアメリカ主導の農業では、国民の食料調達、自給も程遠く、儲けも薄く、破綻への道ではないだろうか。

 

インドの肥沃な大地は、綿花などの先進国、宗主国向けの産品だけとなり、土地は荒れて農村社会は荒廃したと言う。日本の伝統的な農業のスタイルは、里山、水田耕作といった生物多様性を維持する、サステイナブルな農業スタイルである。

 

 セポイの反乱――インドの大反乱
英国の植民地支配の下で、東インド会社に雇われていたインド人の兵士達、セポイ軍、あるいは「シパーヒー」が、プラッシーの戦いからちょうど100年目、1857年になって大反乱を起こす。

 

東インド会社が現地から傭兵を調達するようになった始まりは、1757年のプラッシーの戦いの時、これらの傭兵が「シパーヒー」で、日本ではセポイという表記が一般的だった。彼らは上層カーストに位置するヒンドゥー教徒と上流階級のイスラーム教徒で構成され、規律正しく、有能。次第に重く用いられるようになり、19世紀には東インド会社の兵力の中心、反乱当時は20万のシパーヒーが存在したとされる。

 

彼らが反乱を起こした直接的な原因は、イギリス本国で新たに採用されたライフル銃(それまでの滑腔銃と異なり正確な命中精度と強力な威力を持つ)であるP1853エンフィールド銃の薬包(先込め銃に装填する一発分の火薬と弾丸をセットで紙包みで包んだもの)に、ヒンドゥー教徒が神聖視する牛の脂とイスラーム教徒が不浄とみなしている豚の脂が使われており、この銃がシパーヒーにも配備されるという噂が流れたことである、と。(ウィキペディア)

 

ぁ.船礇僉璽謄ーと予言(http://www.y-history.net/appendix/wh1302-053.html
 シパーヒーの反乱が始まる前に、不思議な現象が起こった。北インドで主食とされている小麦粉を薄く焼いた“おやき”のようなチャパーティーが、村から村へ配られていったのである。それを配って歩いたのは各村の村番たちである。不思議に思ったイギリス人が訳をたずねても、彼らは何も答えない。そして反乱はチャパーティーが配られた村々に広がっていった。

 

またそのころ、街や村で預言者が異口同音に「1757年、プラッシーの闘いでイギリスはインドに覇権を確立した。あれからちょうど百年、百年目の今こそイギリスは滅び、イギリス人は皆、海に追いやられて死ぬ!」と予言した。<長崎暢子『インド大反乱一八五七年』1981 中公新書 p.5-7>

 

 シパーヒーの蜂起はインド全体の大反乱のきっかけとなり、各地で民衆が反乱に加わった。シパーヒーを中心とした反乱軍は、デリーに進軍、ムガル帝国の皇帝バハードゥル=シャー2世を擁立して、デリーに政権をうち立てた。また反乱軍には、イギリスのとりつぶし政策に反発した藩王国も加わった。インド西部の小国の女王ラクシュミー=バーイーもその例であり、彼女は反乱軍の先頭に立って闘い、インドのジャンヌ=ダルクと言われた。こうして反乱は全インドに拡がり、各地に反乱政権が生まれた、と。(戦闘の拡大)

 

イギリスのインド総督カニングはボンベイ、マドラスの両管区から兵を召集、前年に反乱が終結していたイラン、太平天国の乱が下火になっていた中国から軍隊を移動させた。さらに、ネパールのグルカ兵(かつてグルカ戦争でイギリスと戦ったが鎮圧された)、パンジャーブのシク教徒(かつてシク戦争でイギリスと戦ったが、一方でイスラーム教徒と根深い対立関係にあった)を味方にし、近代的装備にものを言わせて反撃に移った。(イギリスの反撃)

 

反乱軍とイギリス東インド会社軍の戦闘は、9月まで続いたが、東インド会社軍が態勢を整えたのに対し、反乱軍は横の連携もとれず、内部対立が生じ、またヒンドゥーとムスリムとの対立もあってまとまらず、デリーが陥落し、反乱は鎮圧され皇帝バハードゥル=シャー2世は逃亡したが、捕らえられてビルマに流刑になった。これによって、ムガル帝国は名実ともに滅亡し、デリーは陥落、各地の農民反乱はさらに1年以上にわたって続き、1859年1月に鎮圧される。(終結)

 

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反乱軍の捕虜には、ほとんど裁判もなく死刑が宣告された。処刑の方法は、数人ずつ束ねて大砲の前に立たせ、弾丸もろとも吹っ飛ばすとか、マンゴーの木の下に荷車を置き、その上に何人かの罪人を立たせて枝から吊したロープに首を巻き、牛に車をひかせるとか、象を使って八つ裂きにするとかいろいろと‘趣向’がこらされた。

 

アラーハーバード近郊の街路に沿うて、樹という樹に死体が吊され、‘絞首台に早変わりしなかった樹は一本もなかった’ほどであった。それからヒンドゥー教徒の口に牛の血を、ムスリムの口に豚の血を流し込んで苦しめたり、・・・。また、反乱者を出したり、かくまったりした村や町には、四方から火が放たれ、火をくぐって逃げ出して来るものを、老若男女を問わず、待ちかまえていて狙い撃ちするといった手のこんだ演出までしでかした。

 

これらの行為は、イギリスの軍人自身が‘誇らしげに’伝えた証言にもとづく事実である。<森本達雄『インド独立史』1978 中公新書 p.47-78> ベトナム戦争やイラク戦争の原型がここに見られる、と。

 

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 反乱の鎮圧に成功した英国は、それまでの東インド会社を通しての統治には限界があることを認識、ついに1858年に東インド会社を解散させ、インド総督を頂点とした本国から派遣した官僚・軍隊による直接統治に切り換えた。そして1877年(明治10年)にはヴィクトリア女王を皇帝とするインド帝国を樹立し、イギリス帝国主義の最大の基盤として、植民地支配を続ける事になる。

 

インド大反乱が起こった1857年は、ヨーロッパではクリミア戦争(1853〜56年)の終わった翌年、中国では太平天国の乱(1851〜64年)、アロー戦争(第二次アヘン戦争・1856〜60年)の最中、日本の開国(1858年、日米修好通商条約)のころである。

 

これら明治維新に先行するアジアの反植民地闘争を体験した欧米列強が、日本に対しては民族抑圧的な武力行使には出ずに、自由貿易の強要という外交交渉を優先させたともいう。

 

そしてケンブリッジ大学の歴史学者、Angus Maddisonの推計によると、インドの世界経済の所得におけるシェアは1700年代の22.6%から1952年の3.8%にまで低下してしまった。(ウィキペディア)植民地経営によるインド経済の疲弊と言うべきであろう。

 

А.ぅ鵐匹瞭販――カースト社会の温存と宗教抗争
1877年にインドはヴィクトリア女王を頂く帝国となって、第一次大戦(1914年)勃発までの40年近く、反英感情の高まりの中でも、インド植民地では、おおかたは積極的にイギリスのドイツとの戦争を支援し、多数の兵士が徴兵に応じてイギリス軍に参加した。インド担当相のモンタギューは、1917年に大戦後のインドの自治を約束する宣言を出した。

 

しかし人類史上初めての総力戦(第一次大戦)は長期化し、やがて植民地でも反英独立運動が活発となって、英国の統制は弱まり、19世紀からの「大英帝国」の繁栄は終りに向かいつつあった。そして途中から第一次世界大戦に参加したアメリカ合衆国が、戦後に債務国から債権国へと、世界の強国にのし上がっている。

 

ここで第一次世界大戦後の自治の約束は実現せず、国民会議派のガンジ―を中心とした独立運動が展開するが、この時インド国内では、ヒンズー教とイスラム教の対立、カースト制度による国民の分断を抱えており、やがて第二次大戦をむかえる。

 

第二次世界大戦が起こると、イギリスはインドを自動的に連合国側に参戦させ兵力の供給地とするために、大戦後の独立を認めた。しかし国民会議派は、帝国主義との戦いよりも、まず即時独立を認めよと迫り、即時独立を認めないならば、イギリスには協力できないとして、「インドを立ち去れ」(クィット=インディア)運動を起こした。イギリスはガンジーらを逮捕し、運動を弾圧した。

 

そして戦後の1947年7月、アトリー内閣(労働党)のもとで、イギリス議会がインド独立法を可決する。ナチスドイツ敗北後のイギリス1945年7月5日の総選挙では、戦争を勝利に導いたチャーチルの名声に依存した保守党に対し、戦後再建にむけて大規模な社会改造を掲げたアトリーの率いる労働党が挑戦し、労働党393議席、保守党213議席(自由党はわずか12議席)という大勝利を占めた。戦争に飽いた国民が社会保障の充実などの労働党の政策に大きな期待をかけた結果といえる、と。


アトリー内閣はイギリス最初の労働党単独の内閣、国民の期待に応えて、社会保障制度の充実、(ゆりかごからは墓場まで)の「福祉国家」を実現した。マルクス主義的な暴力革命によらずに社会改良を行おうという社会民主主義の思想、また経済理論としては財政支出によって完全雇用をめざすというケインズの限界がまだ見えない頃であった。

 

しかしこの政権下でも、1947年8月15日のインドの独立は、独立運動の指導者ガンジーの思いに反して、ヒンドゥー教徒の国であるインド連邦とイスラーム教徒の国であるパキスタン(インドの東西の二地域、現在のパキスタンとバングラデシュから成り立っていた)へと、インドは二つの国へと分離独立となった。

 

─‘販後のインド
独立の直後から、宗教対立は深刻であり、カシミールの帰属問題、インド=パキスタン戦争へと続いていった。初代首相にはジャワハルラール・ネルーが就任し、政教分離の世俗主義という柱で国の統一を図り、1950年に共和制へ移行。1946年12月発足の制憲議会が1949年11月26日にインド憲法を公布、それを受けて1950年1月26日に施行された。

 

この憲法の起草者アンベードカルは、カースト制度下の不可蝕民出身であり、憲法上にカーストによる差別は否定され、前文では、インド国民が主権を持つ民主共和国を実現する決意を明らかにし、公民すべてが社会的・経済的・政治的な正義、思想・表現・信条・信仰・崇拝の自由、地位・機会の平等を確保し、個人の尊厳と国家の統一をもたらす友愛を促進することを規定している。

 

しかしながら、現実のインド社会では、カースト制度の下での女性蔑視、不可触民(ふかしょくみん)への過酷な蔑視、問題が引き続くと言う、憲法規定と実態の乖離は、日本の実態との重なるのではないだろうか。平和憲法下での自衛隊、証拠なき有罪判決、代用監獄による長期拘留の日本の現状である。

 

ネルーは5か年計画による重工業化を推進し、対外的には冷戦下にあっても両陣営に属さない非同盟の立場をとった。冷戦時代のインドは、アメリカ型政治体制にも共産党体制も採らない、中立非同盟諸国家の中心となった。

 

1964年にネルーが死去、国民会議派のラール・バハードゥル・シャーストリーの短期政権を経て、1966年にはネルーの娘インディラ・ガンディーが長期政権を担ったが、1980年、返り咲いたインディラ・ガンディーは1984年暗殺されており、後継したインディラの息子ラジーヴ・ガンディーも辞職後に暗殺されている。

 

その後もインドは、基本的には中立非同盟を維持しつつ、BRICS(ブラジル・ロシア・インド・中国・南アフリカ)と言う新興国の1つに数えられて注目を集めているが、植民地支配の負の遺産と言うべき、宗教対立、そしてカースト制度の中で、貧困率も高く経過している。

 

 カースト制度

(インドで生まれた独特の社会的身分制度 「ヴァルナ」「ジャーティ」と呼ばれる。)
ヴァルナとはサンスクリット語で色を表し、肌の色による差別体系のことを指します。もともとは白色系人種であるアーリア人がインド西北部に侵攻してきた 際にインドの先住民族であるドラヴィダ族等の有色人種と自らを区別するために作り上げた制度です。」とある。

 

「司祭階級の「バラモン」を頂点として、その下に王族、武 士階級の「クシャトリア」、農民や商人等の庶民階級である「バイシャ」、奴隷階級の「シュードラ」の4階級に区別されています。さらにその下に「不可触民」が置かれており、アンタッチャブルとかハリジャン、当事者は自分たちをダリット(दलित)と呼ぶのを好んだという。ダリット(दलित)とは「困窮した者」「押しつぶされた者」「抑圧されている者」の意。牛糞にまみれた不可触民、飲水食物すら拒否されるという。

 

尚、ガンジーは、この不可触民の呼称についてハリジャン(神の子、हरिजन)として、差別撤廃の必要を説いている。しかしこの呼称はガンジーがヒンドゥー教の輪廻転生の教義にしたがい、現世で苦しんでいる彼らは来世で必ず良い生まれ変わりを迎えるだろうとして恩恵的、偽善的に呼んだにすぎず、この呼称によってむしろ、カースト・ヒンドゥー(不可触民以外の一般のヒンドゥー教徒)社会全体が良心に目覚めたかのような印象を外界にあたえることは耐えられないと感じている当事者ダリットも少なくないと言う。

 

遺伝学的な見地からみたダリットは、「インドは、遺伝的には世界で最も多様な国家であるにもかかわらず、不可触民については遺伝的な根拠がまったくないのであり、この差別が社会的につくられてきたことは明らかである。遺伝的調査はさらに、全体として、インドの遺伝的グループはいかなる非・南アジアのグループとも大きな類似性を示していないことを示しており、不可触民をふくむ全インド人は、まぎれもなく、また、等しく南アジアの人びとである。」と。

 

カーストという単語はもともとポルトガル語で「血統」を表す語「カスタ」(casta) であり、ラテン語の「カストゥス」(castus)(純粋なもの、混ざってはならないもの。転じて純血)に起源をもつ。 15世紀にポルトガル人がインド現地の身分制度であるヴァルナとジャーティを同一視して「カースト」と呼んだ。そのため、「カースト」は歴史的に脈々と存在したというよりも、植民地時代後期の特に20世紀において「構築」または「捏造されたもの」ともいわれる。

 

植民地の支配層のイギリス人は、インド土着の制度が悪しき野蛮な慣習であるとあげつらうことで、文明化による植民地支配を正当化しようとした。ベテイユは「インド社会が確たる階層社会だという議論は、帝国支配の絶頂期に確立された」と指摘している、と。

 

インド伝統の制度であるヴァルナとジャーティの制度体系は流動的でもあり、固定的な不平等や構造というより、運用原則とでもいうべきもので、伝統制度にはたとえば異議申し立ての余地なども残されていた。ダークス、インデン、オハンロンらによれば「カースト制度」はむしろイギリス人の植民地支配の欲望によって創造されてきたものと主張しているという。

 

こういう説もあるのだから、私達の教養、常識と言うものさえ、西欧列強の都合によって刷り込まれていると言う見解もあり得るのであろうか。カースト制度は、イギリスの植民地支配の中で、今の形まで推し進められているとの解釈もあり得るのであろう。

 

 ガンジーとアンベードカルの対立
1)アンベードカルの場合
「1947 年にネルー初代内閣で、アンベードカルは法務大臣に就任し、自身の出身であるアウトカースト(ダリット)への差別は違法であるとの決議を国会で通しています。彼の最大の目標は平等憲法の制定であり、憲法草案委員会の議長になって、不眠不休でほとんど単独で草案を書き上げます。」 彼の執念というべきか、 1949年、カーストの廃止を謳ったインド国憲法は採択された。

 

しかしながら憲法ができても民衆のしきたりは変わらず、カ−スト制度は依然としてインド社会を支配しており、アンベードカルは、アウトカースト(ダリット)の差別を無くすには、自分達がヒンズー教から改宗して出るしかないと考える。

 

インドの歴史においては、ヒンズー教の差別に対して、万人の平等を説いた仏教やシーク教があり、アンベードカルは仏教を選択し、法務大臣を辞任して仏教へ改宗を果たすのだが、1956年 10月 14日、 この彼の呼びかけに答えて、数十万(50万人とも言われる)の不可触民達が一緒に改宗を果たしている。この2ケ月後に、健康すぐれなかったアンベードカルはこの世を去るのだが、現在インドには1億の彼の追随者仏教徒がいると言う。

 

2)ガンジーの場合
これに対して、ガンジーはカスト制度は、差別主義と否定するよりも、ヒンドゥー教の考えに基づいてインドをイギリスから独立せしめ、インドの社会を作っていこうという考えに立ち、カースト制度自体を否定している訳ではありませんでした、と言う。

 

ガンジーは次のように公式に発言しているという。
ヒンズー社会が存続するとしたら,それはカースト制度のうえに成り立っているからである。自治独立の芽はカースト制の中にこそ求められるべきだ。異カーストの間で食事をともにせず,結婚しないからといってカースト制が悪いとはいえない。カーストを超えて結婚し,職業を選ぶのは,ヒンズー教徒にカーストの真髄である世襲的職業原理を放棄せよといっているのと同じだ。世襲的原理は永遠の原理だ。 ブラーミンがシュードラに変わり,シュードラがブラーミンに取って代わるようになれば社会的,政治的大混乱を生じる。カースト制は社会の自然な秩序である。

 

ここまで言っているかどうか、私には疑問もあるけれど、インドの伝統的な社会秩序を肯定するとこうなるのかもしれない。しかしこの考えは、身分制社会、カースト制度を、自然の秩序、普遍永遠の秩序と考え、その不平等を容認するとも理解されるのではないだろうか。

 

人間が努力しても超える事の出来ない事、出自などを理由にする、職業選択の不自由、教育を受ける権利の差別などを、むしろ自然の秩序としており、現存する社会的立場の不平等を前提にしており、いわば不平等社会の進め、のようにも受け取る事ができそうな気がする。

 

東洋的美学とも言えようが、身分の上下を重んじ、年上、目上の人を重んじるのだろうが、不平等社会にどっぷりかもしれない。ガンジーは非暴力主義者として褒め称えられている訳であり、むしろ聖人の域と言う事で、私達は子供の頃から教えられてきていると思う。

 

この年齢になって私は、こういう考えの人を聖人として、いったい誰が得をするのだろうか?などと考えざるを得ない。それは宗主国側、イギリス側、カストの上位の人々、要は支配する側ではないだろうか?非暴力主義でいてくれる植民地住民、そうであれば、都合が良いのは宗主国側であろうか。

 

そういえばガンジーは、反イギリス、独立運動のエンジンでもあり、ブレーキであった場合も多い。西欧近代の哲学における称賛の裏側には、現実的政治力学が働いている事も、想定できたりして、とか。

 

 日本の瑞穂の国、森友学園

アンベードカルなんて、60歳になってから私は知る事ができて、衝撃だった。日本の、教育勅語を重んじる教育が復活しようとする今の日本、森友問題は、このガンジーとアンベードカルの主張の違いから、浮かび上がる恐ろしさを持っているのではないか?

 

努力しても変えられない、親子、兄弟、男女などの関係を理由にして、逆らう事の出来ない上下関係を是とする風が、私達東洋人の中に確かにあるのだが、それは人間の、私達日本人の、互いに本当の気持ち、考えを言って、互いに理解しあう風を痛める事もあるのではないか?諦めが先に立ち、それが日本人における進取の気性を削いでは、技術発展、イノベーションもなかなか望めない。

 

司法制度の中の、裁く者と裁かれる者の不平等関係、日本の司法制度は、裁く側の印象で、裁きの内容を左右できる裁判官の心証が物を言う世界だ。これでは裁く者、裁かれる者との間に真の平等関係は無いだろう。これをさらに強化、合法化する共謀罪を、今国会で通そうとしている安倍自公政権である。

 

これらは、アメリカと言う戦勝国側が、東洋の農村社会の秩序に根差した、身分制度を口実にする、不平等社会の再定置になるのではないのか。上に立つ者達(公務員、司法当局、町会、地域の上役、家庭内の強者、教育する側(教師))などに、進んで従う人を作りあげ、社会を支配するための道具、というのか理屈、暗示になるのではないだろうか?

 

そうして皆に、「うん」と言わせて、自衛隊をアメリカの石油資源の確保や、異民族支配の為に使いまわし、事実上のアメリカの支配の下に、好きに道具として使い、置き続けるために。

 

人が好いばかりが能ではないので、しっかりしょう。私達東洋人は歴史に学び、自分達と子供達の命と生活を守るために、政府、アメリカの「下ごころ」と、その為の嘘の楼閣、人間の観念の作り出した幻のような事柄、「想像の共同体」のようなものを、自分なりに解釈し直していく事が大切な時代ではないだろうか。

 

次世代の、今苦労をしている子供達の生活が、これで良くできるのかどうか、この国を守っていくためにである。戦前復帰、不平等社会で苦しむのは誰なのか、そこに注目しながら、森友学園問題、共謀罪問題を、考えて行く事が大切ではないだろうか。

 

アジアの人々の、過去の長きに渡る不幸と幸の経過を読み説き、よく類推を働かせて、アメリカの悪魔のような戦略を暴いていこう。日本人の中の買収された言葉、それを隠したい「下ごころ」を。

| アジアの歴史 | 01:22 | comments(0) | - |
アメリカのアジア戦略と美濃加茂市長選

 米西戦争の顛末
2千万ドルでスペインからフィリピンを購入したアメリカは、裏ではスペインと取引しながら、フィリピンの革命軍を騙して協力させ、スペインと矢面で戦わしめた。しかし革命軍の指導者アギナルドの指揮するフィリピン共和国を、アメリカは決して承認せず、これが予定通りだったのだが、アギナルドらを反乱軍として鎮圧しようとする。そこで1899年(明治33年)2月、アギナルド率いるフィリピン軍はゲリラ戦で抵抗、米比戦争となる。

 

明治の初頭のフィリピン革命は民族的な理想社会「リガ」を小説「エル・フィリ」の中に展開した中国系のエリート、ホセ・リサール、35才は1892年大衆の見守る中で銃殺処刑された。その影響を受けた革命組織(カプティナン)内の両雄ポニフォシアとアギナルドは対立していった。1897年5月8日、アギナルドによるポニフォシオ(34才)とその弟の処刑が実行された。その弟は弱冠何歳であったか、「おにいちゃんどうしよう」とたずねたとか。これを処刑したアギナルトは1964年、95歳の長寿を全うしている。

 

1901年、アギナルドはルソン島北部で捕虜となり翌年に敗北、フィリピンの独立は認められず、これからアメリカの統治が続き、1942年の日本軍の軍政を経て、フィリピンの独立は1946年になる。

 

アギナルドのフィリピンとアメリカの戦い、米比戦争はフィリピン軍の戦死者12,000人、アメリカ軍の戦死者4000人、フィリピン非戦闘員の犠牲者が200,000(20万)という膨大さである。その理由は以下のアメリカの姿勢の結果である。

 

フィリピン方面のアメリカ軍最高司令官マッカーサー将軍(戦後に日本占領の最高司令官となったダグラス=マッカーサーの父)は、1900年に正規軍ではないゲリラは「兵士としての資格に欠け、したがって、もし捕虜となった場合、戦争における兵士の特典を享けるに値しない」と声明を行う。つまり将軍の配下、ジェイコブ=スミス将軍は「10歳以上はすべて殺すこと」と簡潔な命令に要約した。

 

当時、フィラデルフィアの新聞で報じられた現地報告には「アメリカ軍は犬畜生とあまり変わらぬと考えられるフィリピン人の10歳以上の男、女、子供、囚人、捕虜、……をすべて殺している。手を挙げて投降してきたゲリラ達も、一時間後には橋の上に立たされて銃殺され、下の水におちて流れていく……」こうした記事は残虐行為を非難するためでなく、文明人が非文明人に対する行為として正当化するために書かれていた。

 

フィリピンのアメリカ軍指揮官には本土でインディアン=ファイターとしてコマンチやアパッチと戦っていたが、「一人のインディアンをつかまえるのに100人の兵士を要したものだったが、フィリピン人はいっそうたちが悪い(註」と言っている。インディアン戦争からフィリピンへ、さらにベトナムへとつながるのがアメリカの歴史の最暗部との指摘もある。(註 藤永茂『アメリカ・インディアン秘史』1974 朝日選書 p.245-247>

 

 アメリカの統治方式
「遅れたフィリピンの発展にはアメリカの指導が必要」という口実の元に、アメリカはアギナルドらの独立運動は、フィリピンの安定を疎外するものとして、近代兵器で鎮圧、住民の大量虐殺排除の後、タフト(後の大統領)を総督に任命して民政移管、よくぞぶち上げた、「友愛的同化」であった。

 

1899年3月4日マッキンリー大統領はフィリピン行政委員会を任命、まだアギナルドの軍隊は協力的であったが、「フィリピン人は独立は維持できない」というアメリカ側の基本見解、委員長はタフトであった。翌年3月11日の第二次行政委員会はアメリカの権利の章典を参考にして硬軟両様の政策を敷きつつ、報道統制は厳しく反米闘争をマスコミは隠し、友愛的同化が拡散された。

 

そして依然続く独立運動、ゲリラを厳しく弾圧、アメリカは,スペインが征服する事のできなかった山地部やイスラム地域までも侵攻、イスラム地域の抵抗は依然強力であったため、15 年のカーペンタ−=キラム協定までの戦闘、モロ族系の大虐殺、そうしてフィリピン全土を制服する。

 

 事実にはならない絶望的希望
タフト、1903年ローズベルト政権の陸軍長官に就任するため12月23日マニラを出発する前の演説では「フィリピン人のためのフィリピン建設」であった。しかしジェームズ・ブラウンの手厳しい批判がある。

 

「占領そのものが、もともとフィリピン人は独立を望んでいない、という予断に基づいて行われた。文民政府は猴Оε虚構〞のもとに設立された。この政府は、事実ではなく、事実にはならない絶望的希望を、希望であると偽って宣伝していた。」と。

 

「一方では米軍政の圧迫に反発するイスラム社会に対して、アメリカ・インディアン平定作戦で用いた皆殺し作戦で臨み、1912・13年のホロ島での凄惨な戦いを最後に、勇敢に戦ったイスラム教徒の抵抗もついに力尽きて、ここに南部イスラム社会は、はじめて北部のキリスト教徒社会と同一の政治支配に組み込まれることとなった。 現在につながるフィリピン国家の完成である。」と。

 

 フィリピン人の国家
しかしながら、この事実には絶対にならないと知った上の、フィリピン人の希望として拵えた「フィリピン人の国」。多くの人々の命をも奪いつくした夢、「フィリピン人の独立国家」、国家とは「想像の産物」でもあるという事を示しているとも言えようか。

 

「人々がどうしてそんなにナショナリズムに熱狂し、執着し、いかなる犠牲をも、ときには自分の命すら捧げる事を厭わないのか」を問題にするときに、国家とは、「政治的イデオロギー」というより以上の、人間を捉える社会文化的現象であるのかもしれない。

 

それは「想像の産物」「想像の共同体」でもあり、また同時に現実的に国民の前には、税を徴収し、その税をもって行う国家政策の総合体、連合体、集合ともいえようか。

 

国家とは想像の共同体であり、国民にとっての実体的な姿は、税を徴収し、その税をもって行う、制度政策の体系であろうが、そうであれば、アメリカのフィリピン支配、友愛的同化政策とは、フィリピン国民からの税金をもって、何を成したのか、フィリピン人の命と暮らしに、何ほどの幸せを作ったのであろうか?

 

想像の共同体でないとして、実体としての共同体であれば、フィリピン社会の暮らし向き、その底上げをどういう税金の徴収、そしてどう使うか、それが実体としての国家、その中身なのではないか。

 

しかしながら、植民地統治においては、表向きの政策は1907年、段階的な最初の自治容認となるフィリピン議会開設、内政におけるフィリピン人への権限移譲を予定、フィリピン人の自治を一部認めた形とするが、決して独立は認めなかった。16 年にはジョーンズ法によって二院制議会が設立され たので,立法権は漸次フィリピン人の手に移り、「アメリカの時代」が到来する。

 

 アメリカ流民主主義
このアメリカ流民主主義の導入、それを享受したのは,フィリピン議会や地方政府 の選挙人資格にもみられるように,男子の有産階級出身のエリートのみであり、フィリピン経済は完全にアメリカに支配されるようになった。

 

1909 年に制定されたペイン=オルドリッ チ関税法と,その一部を修正した 13 年の関税法で,フィリピンとアメリカの間には完全な自由貿易が成立し、結果としてフィリ ピンの外国貿易は輸出入ともに,全面的にアメリカ市場に依存するようになった。

 

この貿易関係を軸に,アメリカ資本は輸出農産物 加工部門,貿易・販売会社,鉱業,林業,電力事業などに進出した。ところが1929 年に始まった世界恐慌になると、フィリッピン側ではなく、アメリカ側からフィリピン独立の主張が高まった。

 

それは植民地フィリピン産の安価な製品が本土にもたらされ、アメリカ国内産業を圧迫したため、世界恐慌に苦しむアメリカ産業界からフィリピンを分離してその産品に課税すべきであるという要求である。結果、1935年11月15日、アメリカは独立準備政府たるフィリピン・ コモンウェルスを発足せしめた。

 

これではどこまでもフィリピンはアメリカ経済のための道具、アメリカ繁栄のための手段であることがわかる。

 

フィリピン人の国家、この国家は「事実にはならない絶望的希望」だったという。そしてべディクト・アンダーソンは、この地域の比較政治学を通して、「国家は想像の共同体」だという。アギナルドが踊った「フィリピン人の国家」とはそもそも事実ではなく虚構であった、いわく「想像の共同体」でもあろうか。

 

 日本軍の侵攻
1941年12月、日本軍の真珠湾攻撃、開戦直後から日本軍はフィリピン侵攻を開始し、アメリカ軍のマッカーサー司令部の置かれたマニラ、イントラムーロスのサンチャゴ要塞に対する空爆を行った。日本側は1月2日にマニラ侵入、激しい攻防戦の結果マニラは陥落する。

 

その時マッカーサーは、有名なI shall return. の言葉を残してオーストラリアに撤退したが、その言葉通り、1945年1月マニラに総攻撃を加え、山下奉文を司令官とする日本陸軍はマニラを撤退した。

 

陸軍は「マニラ市を戦火に曝すのは、伝統ある文化施設を灰燼に帰し、無辜の住民を塗炭の苦しみに陥れるもの」として撤退したが、イントラムーロス/とその付近には海軍陸戦隊と、戦闘要員として現地召集された在留邦人(日本人)の残留部隊約1万が残されていたと。

 

フィリピン軍司令官に見捨てられた彼らは満足な武器もなく、竹槍なども武器にした。アメリカ軍の侵攻にあわせてフィリピン人ゲリラも各所で蜂起し、2月9日前後に壮絶な市街戦、2月24日に最後のサンチャゴ要塞が陥落まで、多数のマニラ市民が犠牲となった。

 

特にサンチャゴ要塞では地下牢にアメリカ人、フィリピン人、スペイン人、中国人などの捕虜が収容されていたが、日本軍憲兵隊は要塞から撤退する際に囚人を焼き殺し、さらに海水面より低い地下牢が高潮で水没して捕虜が溺死するのを放置したことは、戦後の長い間、マニラでの日本に対する悪感情の原因であるという。

 

  フィリピンの戦後史
1946年7月4日、フィリピンはアメリカ合衆国から独立、フィリピン共和国となった。初代大統領ロハスはアメリカの意を受けて共産党系武装集団フクバラハップ(フク団)掃討に全力を挙げたが、48年心臓発作で急死、次のキリノ大統領はフク団との和平を進めた。その後、国防長官マグサイサイは「アメとムチ」を使ってフクバラハップを鎮圧することに成功、人気を博して1953年に大統領に当選し、土地改革などを行った。

 

マグサイサイは、政治における清廉潔白さ、プラグマティックな理想主義などから人気を得たが、1957年3月17日に航空機事故で49歳で死去した。この間1951年にはアメリカとの間で米比相互防衛条約を締結し、アジアにおける対共産圏包囲網の一員に加わり、アメリカのアジア戦略の一翼となった。

 

続くマカパガル大統領、そして1965年に就任したマルコス・イメルダ夫妻は、利権を操り、外国資本と結びついた開発を推し進め(開発独裁)、民主化を求める運動を戒厳令によって弾圧し長期政権を維持した。大統領の三選を禁止していた憲法を戒厳令の下で改定して、74年に新憲法の下で大統領三選を果たし、外国資本の導入による工業化政策を推進、その具体的な施策として輸出加工区の設置で、原料輸入・製品輸出を非課税にすることで外資導入を促した。

 

 ピープルパワー革命
しかし1983年に政敵ベニグノ=アキノ暗殺事件を機に、経済危機も相まって一気に独裁反対の声が強まり、1986年の大統領選挙でアキノ未亡人が当選すると、マルコスはその当選を無効としようとして工作したがかえって民衆の反発をうけた。

 

マニラ市内で市民が結集、軍やカトリック教会も反マルコスで一致したためマルコスは夫人と共にアメリカに亡命、このピープルパワー革命と言われた民主化が実現してアキノ大統領が出現した。

 

以後、アキノ政権のもとで民主化が進められ、大統領は1992年にラモス、1995年にエストラダ、2001年にアロヨといずれも民主的な選挙で選出されたが、なお貧困層の拡大、イスラーム系の分離運動などが続いている。

 

 ドゥテルテ大統領への支持
2016年5月に行われた大統領選挙で、元ダバオ市長のドゥテルテは圧勝したが、特に地盤である南部やマニラ首都圏などで高い得票率を誇った。加えてもう一つ、彼が72%を超えるダントツの得票率を誇った地域があった。それが、海外だという。


フィリピンは国内経済の状況から、国民は世界各国で多くの人々が働いて外貨を稼いでいる。英語に堪能な人々が多い事情も有利に働き、国民の1割近い1000万人以上が海外で暮らし、外貨送金が国内の経済を支える「出稼ぎ大国」との異名もある。


スペイン、アメリカの支配を400年以上に渡って生きた人々、宗主国の富、そして今では国際的な大企業、グローバル企業の利益のための国内資源、低賃金労働力という社会となっている。海外に出ていながら「本当は母国フィリピンで暮らしたいから」が、支持の理由だという。


日本同様、フィリピン国内にはアメリカ軍基地があり、1992年に一度撤退した。しかし、2014年に結ばれた「米比防衛協力強化協定」に基づいて、2016年3月にはフィリピン国内の5基地を共同使用する合意が結ばれた。中国の台頭に対抗するアメリカ側の意向が反映されたとみられており、フィリピン側はその見返りに、アメリカに防衛のための資金援助を求めた。

 

こうした動きから、ベニグノ・アキノ前大統領は「アメリカの操り人形」と度々批判されてきたが、9月12日の演説でドゥテルテ氏は「アメリカ軍は出て行け」と発言している。

 

 マスメディア情報の偏り

シンガポールの建設会社でエンジニアとして働くテリーは、「世界中のメディアは誇張しすぎ」と憤る。


「ドラッグや汚職との戦いで彼は次々と敵を作っています。しかし、これまで甘い汁を吸ってきた大企業や著名人が、色んな手段を利用して彼の評判を貶めている可能性は否定できない。不正確なニュースが流れ続けるからこそ、私は彼らの情報操作が及ばないSNSで情報収集できる時代に感謝しているんです」。


彼女もドラッグ取り締まりについての手腕を評価している。「彼のアグレッシブな取り締まりだけが話題になっている。でもその裏で、60万人もの犯罪者が自首した事実はあまり知られていない」。ドゥテルテ氏は就任前に、薬物犯罪者を厳しく取り締まると宣言。刑務所には自首する人々の行列ができた。こうした厳しい取り締まりが治安改善に役立つと考えている。


ドゥテルテ大統領を、世界のマスコミは酷評するが、彼の言葉の背後の歴史、スペイン、現アメリカの支配の過酷さがある。その上、現在では情報操作、騙しに近い情報が拡散されている。フィリピンという発展途上国側の国民生活、文化、命よりも、宗主国の経済、グローバル企業の利益が優先されている。従わない者達への残虐も、歴史的事実として重なっている。


どのような理想も、国家像も、理念も正義も、いかようにも拵える事は出来るのが、マスメディアであろうか。しかしその正義、その理想をどう実現するのか、国家は想像の共同体だとしても、国家は税金を徴収し、実現すべき国民生活の安定、幸せを作る機関、実体としての国家は、今どう動いているのだろうか?


フィリピンでは、白人列強国のための道具の植民地住民であって、宗主国に背くことは死を意味していた。現在の日本は、アメリカの言う正義の為、一番危険な軍隊の下働きを要請される自衛隊である。そして国籍不明の企業へ税金を還流するにあたって必要な、想像の共同体、「日本」でもあろうか。

 

それを正義として拵えるのが、マスメディアを支配する集団であろう。世界のマスコミに、ドゥテルテ大統領と双璧とされる乱暴者、トランプ大統領は本日の就任演説である。マスメディアの偏りを、トランプが、トゥテルテが気付かせてくれるに違いない。

 

 アメリカの戦略に抗して

植民地の統治では、国土も、国民の労働も、全ては本国経済のための道具であった。グローバル経済が席巻する今日では、国家を支配する者たちは、グローバル企業の代弁者となっている。国家とはグローバル企業のために、国民から税金を徴収し、想像上の共同体として国民の利益のように勘違いさせながら、グローバル企業の産業育成として税金を流しこむ事ができる。


その為の、マスメディアのコントロールと、税金を横流しするための人材育成、グローバル企業に同調する政治家が育成される?


ODA、海外への援助が、なぜあんなに大きい? 海外展開の企業への税の還流は、国民生活に還元されるのだろうか?私達は重税で苦しむだけ、雇用は海外であろう。何故グローバル企業はあんな大きな資金を、税金で支援される事ができるのだろうか?

 

トランプ新大統領は「あまりにも長い間、ワシントンにいる一部の人たちだけが、政府から利益や恩恵を受けてきました。その代償を払ったのは国民です。ワシントンは繁栄しましたが、国民はその富を共有できませんでした。政治家は潤いましたが、職は失われ、工場は閉鎖されました。権力層は自分たちを守りましたが、アメリカ市民を守りませんでした。彼らの勝利は、皆さんの勝利ではありませんでした。彼らは首都ワシントンで祝福しましたが、アメリカ全土で苦しんでいる家族への祝福は、ほとんどありませんでした。」と語っている。トランプ大統領は、案外まっとうであった。

 

 ソ連邦亡き後の日本の立場
日本はソ連邦が存在している限り、ソ連邦の真下に居て、アメリカに優遇されたのであろうか。その地政学上の位置が「物を言った」のであろうか。そのために経済の順調回復は許されていた?それは西ドイツも同じであったろうか。

 

ゴルバチョフ政権(1985/3〜1991/12)が始まって6カ月後のプラザ合意(1985/9)、ベルリンの壁崩壊が1989/11/9、ソ連邦崩壊が1991/12で、日本のバブルは1991/3から1993/10まで、プラザ合意1年後に1$(ドル)は250円から150円になった。金余り、不動産価格暴騰、はじけて失われた10年が始まる。

 

ソ連邦無き後の日本は、優遇される条件を失い、失われた20年に落とされたのかもしれない。異文化、異民族、異国家ならず、自国民さえ、企業利益の道具とする、グローバル企業の論理に迎合するのが、アメリカ市場原理主義の意を汲む、クリントン・オバマであろうか。そして敗戦国日本への指令、国内司令部はどこであろうか?

 

ソ連邦解体後、全ての富を吸い上げられつつある日本ではないだろうか。失われた20年とは何であったのか?

 

 美濃加茂市長選挙を応援しよう

この動きの日本側の司令部、最高裁事務総局の動きに対して、目を見開き、次第に事務総局を制御する事が大切では無いだろうか。フィリピンの歴史は、フィリピン人内部の同胞内部の争い、そしてエリートの宗主国への迎合によって、国民の苦悩を長引かせてきている。

 

今私達は、右翼、左翼を問わず、過酷になり勝る市場原理主義的なアメリカの意を汲む集団に対して、その動きを差し止めないならば、フィリピンのような苦しみが待っているのではないだろうか。ホセ・リサール(35才)・ポニフォシオ(34才)は処刑された。

 

抵抗の核になりそうな若者を潰しにかかる最高裁事務総局であろう。美濃加茂市長選が行われる。愚かな男が立候補を名乗りでている。後ろの糸はどうなのか?アメリカ市場原理主義者は、自国民さえ搾取して顧みない政治、それがトランプ大統領の演説から伝わってくる。 

 

アメリカを始めとする各国グローバル企業の利益のため、マスコミをコントロールして、国民を道具として扱う集団の意のままに、この国を動かす集団、最高裁事務総局の悪だくみに抗していく時ではないだろうか。騙されない事であろう。

 

国民の生活を守るための、政治刷新の核になる青年と見ての、美濃加茂市長(32歳)への攻撃であろうか。詐欺師と同道する裁判所である。私達は、この国の未来の為、若い人々の貧困化を防ぐため、国民の生活のため、自分達の税金を自分達の為に使うため、アメリカからの日本の真の独立を果たすことであろう。

 

日本中がこの選挙を見守り、国の未来をかけて、不正を働く裁判所に抗議である。美濃加茂市長の清々しさに、みんなして応援しなければならない時である。

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アメリカのアジア戦略のルーツ

 フィリピン人と西洋人の最初の戦い
信長、秀吉の生まれる前、北条早雲の頃が、コロンブスのアメリカ大陸発見である。アメリカ大陸をまだ想定する事は出来ず、コロンブス自身もその地をインドの奥地と解釈していた頃である。
 
喜望峰からインドに向かうのではなく、大西洋を逆向きに渡ると言う発想、西廻り航路。結果はアメリカ大陸との遭遇、1492年だ。そしてとうとう地球は丸かった事を証明したマゼランの、1521年終焉の地が、フィリピン中部セブ州のマクタン島である。

 

彼達はローマ法王庁から、現地人をキリスト教に改宗させると言う目的を与えられ、改宗しない現地人の奴隷化、殺害までも許されていたと。しかしこれは国家=宮廷の富を増すための、香料や宝石などの奢侈品、綿織物や生糸など特産品の獲得、金銀など地下資源の収奪という目的の隠れ蓑だったともいう。

 

セブ島の領主らをキリスト教に改宗させスペイン王に従わせたマゼランだが、ムスリムの領主(ダトゥ)ラプ=ラプはそれに従わなかった。両者は戦闘となり、ここでマゼランは戦死、これがフィリピン人と西洋人の最初の戦争だという。マゼランを討ち取ったラプ=ラプは後に侵略者に対する抵抗の英雄とみなされ、島最大の都市ラプ=ラプ市は彼を記念して名づけられた。

 

大航海時代とは西洋の命名、マゼランの船の到着から20数年後、極東の日本にも種子島(鉄砲)が伝来する。

 

⊃径舂Δ離好撻ぅ鹽治
コロンブスの新大陸発見の翌年、さっそく発見した地域の領有を巡ってポルトガル、スペインの間で支配地の線引き、教皇アレクサンデル6世の教皇子午線である。これにポルトガル側は不満で、2国間の交渉を開始、1494年にはトリデシリァス条約で修正している。こうしてブラジルを除き南北アメリカ大陸に広大なスペイン領土が齎された。

 

このローマ教皇、アレクサンデル6世(在位1492〜1503年)はルネッサンス期最も悪名の高いと言われるスペイン出身、本名はロドリゴ=ボルジア。有名なチェーザレ=ボルジアの父親である。

 

権謀術数と毒殺などで競争相手を倒して頭角を現したボルジア家。教皇領の統治者としての富をもち、一族を教皇庁の要職につけたり、高位の聖職者に任命したり、イタリアの各領主と取引をして領主の地位を与えたり。息子のチェーザレ=ボルジアをヴァレンチノワ公に仕立て、娘のルクレツィアはフェラーラ公などに嫁がせている。

 

ローマ法王庁は絶対王権と一体的であり、先住民へのキリスト教布教の役割を与えて、改宗しない場合の奴隷化、殺戮を明文的に許可を与える権威的な存在であったろうか。

 

そこで善良なアメリカ先住民は「スペインの(征服者)によってその文明を破壊され、またスペイン人入植者のエンコミエンダ制による強制労働や、後にはアシエンダ制大農園やプランテーションでの過酷な労働によって急速に人口が減少した。」

 

「カリブ海域ではコロンブスの到来の頃に約300万人いたインディオは、その後の約30年で10万人までに減ったと推定される。アステカ王国のメキシコでは約2500万人だったのが、征服から100年後の1625年頃にはわずか100万に激減、インカ帝国の地域は約1200万人が約半世紀間に5分の1まで減少した」と。

 

人口減少が進み、銀山の採掘量も減ってきた17世紀には、キリスト教布教と抱き合わせで先住民を支配する「エンコミエンダ制」に代わって、入植者が大土地所有制のもとで農園を形成する「アシエンタ制」、現地人を債務奴隷として労働力とする大農園経営の形態がひろがっていったと言う。そしてやがてアメリカ大陸にアフリカ大陸からの黒人奴隷が運ばれた時代へと進む。

 

借金の形(カタ)、前借なのだろうか、奴隷労働を余技なくさせる訳である。もっと進化した奴隷労働が、現代のアメリカ社会の、奨学金返済から一生逃れられない若い人々ではないのだろうか。

 

スペインのフィリピン植民地化
フィリピンのロドリゴ・ドゥテルテ大統領のオバマアメリカ大統領への暴言がたびたび報道されて、この人はどんな人かと思った。しかしダバオ市長を7期務めた70才である。少数民族の彼の言葉の裏側こそが、フィリピンの人々の苦難の歴史、スペイン、アメリカ植民地支配下のフィリピンの声なのかもしれない。

 

国名までもが、1542年の遠征隊が、この地を時のスペイン皇太子(カルロス1世の子、後のフェリペ2世)の名にちなみ、フィリピンと名付けている。

 

アメリカ先住民族が絶滅に瀕するほどの暴虐最中、マゼランはフィリピンに到着、ここで戦死である。しかしスペインからモルッカ(香辛列島)に大西洋側から廻るには、大西洋と太平洋という二つの大洋を横断する必要があり、また帰路は東風の貿易風に遮られて進めず、この後スペインは一時ここを放棄、1529年のサラゴサ条約でポルトガルに譲渡している。

 

この時はメキシコから貿易風の東風に乗ってフィリピンに来たマゼラン、スペイン船だが、帰路は逆風となるので航行は困難であった。フィリピン経営にはメキシコへの安全な帰路が必要であった。(西回りのインド洋航路はポルトガルに抑えられ、利用できなかった)

 

しかし「メキシコ帰還航路の発見を申し出て、大胆にも高緯度海域まで航行し、大きな北よりの弧を描きつつ(大圏航路をとって)太平洋を横断してこの離れ技に成功を収めたのが、ウルダネーダであり、かれは少なくとも北緯42°まで行って《貿易風》という禁止帯を回避した」と。

 

西航に比べれば東航は帆走に二倍の時間を要したとはいえ、この航海が可能であることを実証したこの航路は、その後定期的に使われ、《ウルダネダの道》として知られている。この《ウルダネダの道》を利用してメキシコに戻ることが可能になったことから、スペインのフィリピン経営が本格化した。

 

総督レガスピは、フィリピン支配の拠点として最大の島のルソン島のマニラに着目し、1570年に艦隊を派遣して総攻撃して陥落させ、翌1571年6月にマニラ市に入城した。フィリピンへのスペインの植民地経営の始まりである。これ以後はマニラ←→アカプルコ間の定期航路が開かれ、この航路には大型のガレオン船が使われたのでガレオン貿易とも言われ、18世紀末まで継続して繁栄したと言う。

 

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1492年のコロンブスのアメリカ大陸発見、スペイン国王は1503年末には、インディオのキリスト教化の義務を負わせると同時に、労働力として一定数のインディオを使役する許可を公式に与えた。ここから始まるこのアメリカ大陸での統治形式だが、金銀その他の財宝の獲得に狂奔するスペイン人入植者の側が、インディオの魂の救済にはほとんど関心を寄せず、結局エンコミエンダ制は奴隷制と変わらず、1540年代にポトシ銀山が開発されると、その経営もこのエンコミエンダ制によって行われた。

 

新大陸アメリカでのエンコミエンダ制は理念はインディオ保護でも、実態は入植者がインディオを使役して富を築く隠れ蓑となった。インディオに対する過酷な使役は、その人口を激減させ、ラス=カサスなどドミニコ派の宣教師の反対などもあって、その実態は記録されている。

 

これがフィリピンでも行われ、支配の特徴はカトリックの強制布教と結びついている事であり、教会はマニラ総督を後ろ盾に、教区司祭を通じて聖俗の両面から原住民を支配した。フィリピン原住民の反抗は、ミンダナオ島を中心としたイスラーム教徒の抵抗(モロ戦争)がスペイン支配時代を通じて続いた。またキリスト教化した原住民の中にも、総督府と教区司祭の支配に抵抗が始まり、それは独立まで続いた。

 

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ところで先ごろ死亡のニュースが世界中を走ったカストロのキューバ、ここはその頃コロンブス以来、スペイン領として続いていた。そして1868年に独立運動、鎮圧され、90年代にホセ=マルティを指導者とした独立運動が再び活発となり、1895年7月に共和国として独立を宣言。

 

しかしスペインの弾圧はなおも続いていたが、アメリカ国内ではキューバの砂糖資源に投資していたので、それを失うことを恐れて介入の世論が高まり、1898年にハバナ港でアメリカの軍艦メイン号が爆沈して多数のアメリカ兵が犠牲となった事件(アメリカの謀略という説もある)を受けて、マッキンリー米大統領がスペインに宣戦布告した。

 

これが、アメリカ=スペイン戦争だが、この終結課程が不気味である。ラテンアメリカ・フィリピンでスペイン軍と戦闘の結果、4ヶ月でアメリカは勝利、1898年末に講和が成立し、パリ条約でキューバの独立は承認され、アメリカはフィリピン・プエルトリコ・グアムを領有した。これはアメリカが行った帝国主義戦争であり、これによって海外に殖民地をもつ国家として一躍世界の強国となったと。

 

  なおこの時アメリカがキューバに上陸した地点を、戦後に永久租借とした。キューバが社会主義国となってもアメリカは返還せず、グアンタナモ基地として使用し続けている訳である。

 

ζ販派を利用、アメリカの「すばらしい小さな戦争」

さて東洋ではその時、1898年5月1日、デューイ提督指揮のアメリカ海軍はマニラ湾のスペイン艦隊を全滅させた。しかし陸上では拠点を持たなかったので、急遽香港に亡命していたフィリピン独立運動の指導者アギナルドをアメリカの艦船で送り届けて上陸させ、その指導によってフィリピン軍の協力態勢をとった。

 

7月までに陸上部隊が到着、最高司令官メリットはアギナルドに戦争後の独立を口頭で約束した上でマニラ総攻撃に協力を求めた。その一方、デューイはベルギー公使を通じてスペインのマニラ総督と秘密交渉を行っていた。スペイン総督は「スペインの名誉を守るため、見せかけの戦闘を行い、その後スペイン軍は降伏する」と約束し、その場合はフィリピン軍のマニラ進入は許されないという条件を付けたと。

 

  1898年8月13日、雨期の最中で土砂降りの雨の中、マニラ総攻撃が行われた。フィリピン軍は積極的に攻撃したが、いたるところでアメリカ軍に進路を妨害された。午前11時に戦闘は終わり、城郭都市の一角に兼ねての約束通りスペイン軍の白旗が上がった。早速市内に入ろうとしたフィリピン軍は、米軍の屈強な警備兵に阻まれた。スペイン総督からの降伏を受け入れたのはアメリカ軍最高司令官メリットだった。

 

「こうしてアギナルド軍は、マニラ解放の歴史的な日に、米軍の脇役に押しやられた。 」と言う。
註)鈴木静夫『物語フィリピンの歴史』 p.129 中公新書 1997

 

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この戦争、アメリカ側の死者は1名であった。このニュースを、多くのアメリカ人は、キューバをめぐる戦争が、なぜ遠く離れたフィリピンを舞台として戦われるのかまったくの謎だったのである。しかし、この戦略は、マッキンレー政権の下で、時間をかけて練り上げられていたものであったと。

 

マッキンレー政権にとって、スペインとの戦争は、フィリピンからスペインを駆逐し、アジア市場への拠点を築くまたとない機会だったのである。「素晴らしい小さい戦争」と呼ばれた米西戦争は、わずか三ヶ月で終了し、2千万ドルでフィリピンを購入したアメリカ側の死者は5000人余り、その大多数は熱帯病の犠牲者であった。

 

義勇兵を率いて戦闘に参加したセオドア=ローズヴェルトのように、この戦争をアメリカの「男らしさ」を証明する絶好の機会として捉えた人も少なくなかった。戦争の果実も申し分なかった。

 

1898年の暮れに締結されたパリ講和条約で、アメリカはスペインにキューバの独立を認めさせ、フィリピン、グアム、プエルトリコを獲得する。戦争中に併合が決議されたハワイを太平洋の十字路として、カリフォルニアからマニラを結ぶ「太平洋の架け橋」が誕生することになった。

 

アメリカは、一転してフィリピンの独立を認めなかったので、アギナルドは、今度はアメリカからの独立を求めて戦争を戦い、1899年2月からフィリピン=アメリカ戦争が開始された。しかしアメリカ軍の近代兵器に対してゲリラ戦での抵抗はついに1901年穴ギルドの逮捕、独立運動は挫折した。こうしてフィリピンはアメリカの統治を受けることとなったと。

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