みらい21かなる - 社会福祉士 山眞弓

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美濃加茂市長への控訴の論点(7)
ー法律とは何だったのか?−

レヴィ=ストロース(ユダヤ系のフランス人)は、世界中のあまねく民族集団にみられる婚姻規則、インセスト・タブー(近親婚の禁止)について、独創的な見解を述べている。

この規則は、自集団の女性を他集団に娶せる事によって、婚姻による女性の他集団との交換を通して、次世代、次次世代に渡って他集団との親族関係(親族、姻族など)を形成して、従兄弟同士となり、叔父叔母となり、互いの交流を促してゆく規則だとする。こうして人間は、食料を、婚姻相手を、情報(文化)を交換しあう各集団の関係を造り、その交流の中で自らの命を守り、文化を繋いできたという。

人類はその50万年の歴史経過のなかで、各親族姻族の集団の様々な規則(文化)を生じせしめ、集団を生きる人々を守り、あるいは拘束し、強者と弱者を抱え込んで今に至っているとも思う。古代国家内部、封建時代の領地、そして絶対王政の時代、神に与えられたと言う王権が宣する法律、そして庶民の習俗、慣習、規範などなどと。

やがてヨーロッパは近代を迎える。近代ヨーロッパの市民達は、我儘な税金のとりたて、反対する者を投獄する王権に対して抵抗する中から、王国とは異なる自己利益をもつ自分自身を自覚する。近代的な市民となって、国と自分の関係を問いかけた訳である。

その問いには、「人権」「自然権」「社会契約」という答えを導いた訳だが、この答えを導いた考え方こそが、近代的自我と言う、合理的理性的に外界を理解することができる、人間の精神活動であろう。国と国民の間には異なる利害、対立する利益があり得て、その為に国民は法によってその人権を守られるべきであり、国家は法によって律せらなければならない。国とは権力装置であった。

それ以前のヨーロッパは、15世紀まで十字軍は敗走し、ヨーロッパ世界の西端のイベリア半島グラナダ(スペイン)はイスラムの都であり、無血開城(1492年)してレコンキスタ(再征服運動)が完了するまでの700年間も栄え続けた。そして東側、東ローマの首都コンスタンティノープルはオスマンに攻略されて落城(1453年)、イスタンブールと改名、キリスト教会をイスラム教徒のモスクへと改造して、20世紀(1922年)までイスラムの都だった。ヨーロッパ世界はイスラムに攻められる側だった訳だ。

しかし、ルネッサンス(14世紀のイタリア、15世紀の最盛、16世紀まで)、科学技術の進歩 (15から16世紀)、宗教革命(16世紀1517年、ルターの95条の論題)、大航海時代(15世紀中ばから17世紀中ば)へと時代は展開し、ヨーロッパ人によるアメリカ大陸へ、インドへと植民地主義的な海外進出が始る。とうとう1571年のレパントの海戦で、オスマン帝国を破ったスペインは、1580年ポルトガルを併合、「太陽の沈まぬ国」と謳う、絶対王政の最盛期を迎えたわけである。

西欧社会の圧倒的な技術的、政治的優位が形成されて、1492年コロンブスのアメリカ発見に始まるアメリカ先住民の奴隷化、絶滅に近い状況、アフリカ人を運ぶ奴隷貿易(15世紀から400年間)、インド亜大陸の植民地化へと世界史は展開する。

これらを可能にしたのも、絶対王政を倒し市民革命を成し遂げ人権概念を導いたのも、それこそを合理的な近代的自我であると言わざるを得ない。しかし、その光と影がある。

− 光と影 ―

近代ヨーロッパの市民達、絶対王政の国家に対峙して、王権とは対立する自己利害を自覚し、プロテストする意識こそが、庶民同士の礼儀作法とは異なる「国家と個人の対立関係」を、それに対抗する「人権」を掲げさせたのであろうか。行政権の恣意を抑制する原理としての「人権」「自然権」「社会契約」は、何ゆえに人間は家族や親族や隣人に対するのとは異なる態度をもって、国家に向き合わねばならないのか、その問いであり答えでもあろうか。

われわれ東洋では儒教的な倫理が重んじられ、イスラム法はアラブ世界の人々の生活を覆っている。イスラム法は砂漠の商人の商道徳の体系であり、日本では江戸以降は「儒教」の影響下で、世間一般の対人関係上のあるべき姿を、「義」(利欲なしにやるべきことをやる)、「礼」(『 仁 (おもいやり)』を行動化し、礼儀を重んじる)、「智」(学問に励む)、「信」(誠実で正直、約束を守る)などと重んじられている。

これらは西欧的な自己利益最大化を軸にする近代的自我の原理とは対極である。イスラム法(シャーリア)は六法全書と国際法を合わせたような性格を持つそうだが(それは預言者ムハンマド自身が軍の指揮官であり国家元首であった事が大きく関わっている)、イスラム法では異教徒との戦闘において、異教徒に「ジズヤ(人頭税)を払う」と言われてしまうと、カリフ(イスラムの王)には講和を拒否する権利がないと言う。イスラム法は基本的には商人の倫理体系なので、お金を払ってもらえば対等な取引関係でもあろうか。

このような感覚は、15世紀のアメリカ先住民がスペイン人を迎えて、遠くから来た人々のために席を空けて歓待しようとする事とも通じると思われる。しかしながら異教徒は奴隷にすべしと明文的に許可を出すのがローマカトリックであり、アメリカ先住民はこの善良なる姿勢によって、虐殺に次ぐ虐殺を有効に防ぐ事はできず、奴隷労働へと追いやられた訳である。

アメリカに渡ってきた西欧人の「フロンティア」とは、アメリカ先住民を野生動物の如くに追い払った大地であったのだから。

ー法律(憲法、刑法、民法)と私達ー

近代的自我、その合理性は、強大な国家権力との対抗関係においても有効であり、この思考が封建的な身分社会を突破せしめた。しかしながらその影の部分、非合理的な人間、遅れた人間を支配し、物のように利用する事も自己利益最大化の内側に置くのであり、こうして西欧近代は世界を席巻したのでもあろう。

典型的な近代主義、市場原理主義的なアメリカ一極支配する今日、近代的自我の根幹たる自己利益最大化の光と影、この事を念頭に、大きな規模の人権侵害装置、税を徴収して行う国家装置の前で、今私達は、建て前と本音、義理と人情を使い分ける政治家、マスメディアの本音を意識的に読み込まなければならない。

私達は平場での隣人との間での「礼節、義理」とは別の論理、態度を確立しないと、自分達の生活と次世代を守りきれない時代ではないだろうか。国家との対応関係は上下関係でもあるので、平場の隣人関係とは異なる論理が必要である。私達国民が国民個々人の自己利益に軸にして考えて、選挙、政治行動を進めなければならないのだろう。隣人への礼節と、政治の論理は別物。ごっちゃにしてごまかされそうである。

平場の隣人に対しては性善説、上下関係にもなる国家に対しては性悪説程の違いが必要である。切り分けが必要な時代になっている。

国家と国民の間は憲法、国民と国民の間は民法、そして刑法は国家が行う社会の安定のためにする犯罪の処罰。しかしその犯罪の事実関係は嘘の数だけあり得るので、嘘を限定する証拠をどう扱うか、それが刑事訴訟法である。それぞれの法律の領域によって、国民は性善説にも、性悪説にも立たざるを得ない。

今回の清々しい美濃賀茂市長への起訴、無罪判決そして控訴は、国民の前に何を顕かにしているのだろうか?
| 日本の冤罪 | 10:44 | comments(0) | - |









 
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かなる(canal)は「運河」と言う意味です。以前の目黒川に面した6階の事務所から眺めると、目黒川がちょうど足下を流れているように見えて、まるで運河の上にいるようでした。それでベニスのグランカナールのイメージと重ねて、私達の事務所がいろいろな情報や物資を運び込むよう、21世紀の運河になるようにと名付けたものです。